今、なぜ「ナショナリズムの復権」なのか

東日本国際大学准教授
先崎彰容

著者自らが語る〝ナショナリズム復権〟の本質とは――。

死生観、倫理学にまとわる問い

 拙著『ナショナリズムの復権』(ちくま新書、2013年6月発刊)を出してから、反響は、筆者の予想を大きく超えるものであった。書評が出て、講演依頼が来て、最後にはテレビの出演依頼まできた。それは完全に「予想外」の出来事であった。
 だがこれは、不思議なことだ。なぜならこの書で、私は流行のナショナリズム論とは全く違うことを書きたかったからだ。そもそも「ナショナリズム」とは、「国家について考える」ことである。そういうと、私たちはすぐさま、日々起きる近隣諸国とのいざこざや、経済問題への政府の対応、憲法改正などを思い起こす。要するに、私たちにとってナショナリズムとは、政治・外交そして経済問題と同じことを意味するのだ。近隣諸外国との島々の領有権をめぐる争いなど、日常よく聞くことだし、「日本よ、しっかりせよ」、イヤイヤ「日本が今や軍国主義化しようとしている」という大声を私たちは聞き飽きている。これが今、流行のナショナリズムなのだ。
 だとすれば、今更どうして私のナショナリズム論が受けいれられるだろうか。流行現象に乗っかっただけなのか。
 それが全く違うのだ。こうした政治・経済・外交ではとらえきれないものがある、つまり

「ナショナリズムは外交問題でも政治問題でもなく、死をめぐる問題であり、私たちにとって最大の問い――どう生きるのか、死とは何か――死生観、倫理学にまとわる問いだと、心の底で合点がいく」(『ナショナリズムの復権』31~32頁)

という、これまでとは全く別の角度から、静かに、しかし確実に国家を考えた、語った――これが私の主張の全てなのである。
 だがこれが世の中に受けいれられるとは到底、思えなかった。世間はしばしば、騒がしいもの、マスコミ受けする派手な演出を好むものだ。ナショナリズムが外交問題に結び付けられるのも、そこに人々が熱いものを感じやすいからだ。だから私は拙著を流行に逆らって書いたのであって、受けいれられたのは完全に「予想外」だと言ったわけだ。
 不況にせよ、原発反対にせよ、若者の非正規雇用の問題にせよ、その最深部には共通した問題がある。私たちの生き方そのもの、生活のスタイルがこのままでよいのかが、問われているのだ。

自信喪失の現状に一矢報いたい

 具体的に、拙著『ナショナリズムの復権』の内容にふれてみよう。
 産業社会を生きる私たちは、根無し草の人間である。同じような学歴を身につけ都会をさまよう人間は、不安と孤独を抱えて会社と家を往復している。この静かで漠然とした孤立感は、何か確実で、自分の心を癒やしてくれるものを求める。ここに政治的独裁者が登場する危険性が宿るのだ。特に、東日本大震災によって大地が揺れたことで、私たちの不安は目に見えるものになった。
 吉本隆明、柳田国男、江藤淳、そして丸山眞男などの思想家が、「今の時代」を分析する際の武器を提供してくれる。
 彼らに共通しているのは、戦争を考えぬいたということである。巨大な崩壊の経験、価値観の解体をどう受け止めるか。この問いの深刻さは必ず私たち、震災後の人間にも役立つはずだ。国家のあり方を根本から考えなおす糧になるはずだ、こういう思いで彼らのテキストにむかった。
 たとえば、民俗学者・柳田国男は、次のように考えた。
 戦争は夥(おびただ)しい死者を生みだす。彼らは本来、家を維持し先祖を弔い、後継者を産みはぐくむはずの若者たちであった。だとすれば、彼らの死はこの国を支える「家制度」の崩壊を意味し、国家のあり方そのもの、私たちの生活スタイルそのものを考えることになるのだ。
 また江藤淳は、こう思った。江戸時代と戦後はとても似ている。戦国時代と敗戦は、ともに従来の価値観、世界観を徹底的に破壊したからだ。こういう苛酷な時代に、日本人はどう対処したのか。一度、徹底的に考えてみようではないか。そして新たな秩序を、この国につくろうではないか。江藤はこう考えた。
 それは人びとがしばしば口にする「民主主義」などという陳腐な言葉でどうにかなるようなものではない。耳触りのよい言葉で、済ませることができるような問題ではないからだ。民主主義にすら、私たちの思惑をはずれて危険なものがひそんでいる。人間の心とは、そうした常に危ういものを秘めている何ものかなのだ。
 彼ら思想家たちの問いは、きわめて大事なものだ。戦争という現実を受け止めながら、そこから人間にとってナショナリズムとは何かという深い問いへと降りて行ったからだ。
 今、私たちの前には、震災後のパニックにかこつけて、夥しい言葉が、この国の目ざすべき方向を指差している。声の大きい方が正しく見える。だが本当のところ、何が「正しい」かなど、誰にも分からないのだ。まずはこの事実を直視し、あわてず騒がず、この国の行方を考えてみようではないか――。
 こういう問題意識から出発したナショナリズム論は、皆無であったと言ってよい。それは人々を過激な言葉で導くようなものでもない。にもかかわらず、この書は多くの人の手に取られた。それは今、この国の人々が、その喧噪と雑踏にもかかわらず「何かがおかしい」ということだけは、直観しているからだ。その直観を明らかにしてくれる言葉、しかも冷静な言葉を求めているからだ。
 ナショナリズムを「深く」考えてみる。するとその背景には、人間にとって最も基本と言ってもよい「死」「死者」の問題が横たわっている。だが「戦後」、経済的繁栄だけを自信の最終根拠とし、それが奪われつつある中で、異常に自信を喪失しているのが、この国の現状である。それに一矢報いるために引いた弓の放った軌跡――これが『ナショナリズムの復権』という書物なのである。

<月刊誌『第三文明』2014年2月号より転載>

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『ナショナリズムの復権』
先崎彰容
 
 
価格 842円/ちくま新書/2013年6月5日発刊
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せんざき・あきなか●1975年生まれ。東京大学文学部倫理学科卒業。東北大学大学院文学研究科日本思想史専攻博士課程単位取得修了。文学博士。現在、東日本国際大学准教授。専攻は近代日本思想史・日本倫理思想史。著書に『個人主義から〈自分らしさ〉へ―福沢諭吉・高山樗牛・和辻哲郎の「近代」体験』(東北大学出版会)など。近著に『ナショナリズムの復権』(ちくま新書)がある。