『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第20回 体相③

[2]眼・智によって体を顕わす②

(2)不次第の眼・智

 次に、不次第の眼・智について説明する。これは一心の眼・智とも表現されているが、円教に相当する。この立場は、対立を融合することが基本であるので、止は観、観は止で、止と観は相即している。また、眼は智、智は眼であり、眼と智は相即している。さらに、眼について見を論じ、智について知を論じるが、知は見、見は知であり、知と見は相即しているといわれる。そして、五眼(肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼)の最高である仏眼は五眼をすべて備え、三智(一切智・道種智・一切種智)の最高である仏智(一切種智)は三智をすべて備えているといわれる。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第166回 辻征夫の詩

作家
村上政彦

 十代のころ詩を書いていた。好きな詩人は、日本の詩人では、中原中也と立原道造、外国の詩人では、アルチュール・ランボーとロートレアモン。中学生のとき、ランボーの『地獄の季節』を教科書に隠して、授業中に読んだことを憶えている。
 欧米では詩人から小説家になる例は少なくない。いや、多くの小説家が文学者としてのキャリアを詩から始めている。でも、日本では詩人から小説家になることは珍しいとまではゆかないまでも、少数派だった。
 ところが、近年になって小説を書く詩人が増えている。『現代詩手帖』2023年6月号の特集は、「詩と小説 二刀流の現在」だ。
 翻訳家で鋭敏な批評眼の持ち主でもある鴻巣友季子さんが、どこかで「小説は詩に帰りたがっている」と書いていた。僕は、やはり、とおもった。ロベルト・ボラーニョを読んだとき、同じことを感じたのだ。
 それを直感した「ジム」という短篇が収められているボラーニョ・コレクション『鼻持ちならないガウチョ』の奥付を見ると、2014年発行とある。いまから9年前だ。「ジム」は散文詩のような短篇小説で、読んだときに新しいとおもった。
 ちょうどそのころにノーベル文学賞をもらったバルガス・リョサが、次世代のトップランナーとしてロベルト・ボラーニョを挙げていたので、これは来るな、とおもった。自画自賛になるが、僕は自分の文学的な嗅覚をかなり信頼している。 続きを読む

芥川賞を読む 第30回『猛スピードで母は』長嶋有

文筆家
水上修一

疾走するように生きるシングルマザーと息子との陰影が鮮やかな印象を残す

長嶋有(ながしま・ゆう)著/第126回芥川賞受賞作(2001年下半期)

母子の距離の見事さで人物を鮮やかに描く

 第126回芥川賞を受賞したのは、長嶋有の「猛スピードで母は」だ。『文学界』(平成13年11月号)に掲載された約99枚の作品。当時29歳。それ以前、パスカル短編文学新人賞の候補作、ストリートノベル大賞の佳作第2席となり、文学界新人賞を受賞した「サイドカーに犬」は、前回125回の芥川賞候補になっている。
「猛スピードで母は」は、母子家庭を描いている。夫と離婚し女手ひとつで一人息子を育ててきた母親は、生き抜くために男に対しても社会に対しても遠慮がない。なおかつ自分の欲求に対しては素直で我慢はしない。おしゃれもするし腹が立つと趣味の車でぶっ飛ばす。
 この作品の見事さは、人物の鮮やかさだ。無口で大人しい少年から見た母親を描いているのだが、普通、子ども目線で物語を描く場合、周りの人物や出来事を深い思索や認識で捉えて、表現することは難しい。しかし、この作品はそうした困難さを軽々と超えて実に印象深い母親と、その親子関係を描き出している。 続きを読む

維新、止まらない不祥事――信頼を失っていく野党②

ライター
松田 明

「日本維新の会」公式ホームページより

「党勢拡大ばかりを目指している」

 7月12日、川崎市議会の会派「日本維新の会」に属する2人の市議が、日本維新の会に離党届を出した。
 本年4月の川崎市議選で、日本維新の会は改選前の1議席から7議席へと大きく躍進した。ところが、わずか3カ月で分裂。原因は、補正予算案の採決をめぐり会派として「反対」を決めていたのに、採決で5人が造反したからだという。
 離党した2人の市議は、「有権者をがっかりさせて申し訳ないが、議会人としてあり得ない」「党勢拡大ばかりを目指し、新人教育を現場任せにする党のやり方に疑問を感じる」(『読売新聞』7月15日)と語っている。
 4月の統一地方選では、近畿だけでなく都市部を中心に全国的に議席を伸ばした日本維新の会。衆議院補選では和歌山の小選挙区で初となる議席も獲得した。
 ところが、この〝快進撃〟と同時に各地で噴き出しているのが、同党議員による不祥事である。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第19回 体相②

[2]眼・智によって体を顕わす①

 この段の冒頭には、この段の趣旨を次のように説明している。

 二に眼・智を明かすとは、体は則ち知に非ず、見に非ず、因に非ず、果に非ず、之れを説くこと已に自ら難し。何に況んや以て人に示さんをや。知見すること叵(かた)しと雖も、眼・智に由れば、則ち知見す可し。因果に非ずと雖も、因果に由って顕わる。止観を因と為し、智・眼を果と為す、因は是れ顕体の遠由(おんゆ)にして、果は是れ顕体の近由(ごんゆ)なり。其の体は冥妙(みょうみょう)にして、分別す可からざるも、眼・智に寄せて、体をして解す可からしむ。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅰ)272頁)

 体(本体としての真理)は、知ること、見ること、因、果を超えたものであり、これを説明することは難しいという大前提が示されている。しかし、眼・智に基づけば体を知・見することができ、因・果に基づけば、体をあらわすことができるとされる。因果の定義については、止観を因とし、智眼を果としている。体をあらわす遠い原因が因であり、近い原因が果である。体そのものは説明できないけれども、眼・智にこと寄せて体を理解できるようにさせることが、この段の狙いである。 続きを読む