書評『世界宗教の条件とは何か』――創価大学での課外連続講座から

ライター
本房歩

創価学会の世界宗教化

 作家の佐藤優氏は、2017年9月から12月にかけて創価大学で計10回の「課外連続講座」をおこなった。本書は、その内容をまとめたものである。
 佐藤氏は日本基督教団に所属するプロテスタントのキリスト教徒であり、神学者でもある。
 一方で、佐藤氏は創価学会と公明党に深い関心をもち、この数年、精力的に関連の著述も重ねてきた。

 創価大学の創立者でもある創価学会の池田大作第三代会長を、深く尊敬しています。(『世界宗教の条件とは何か』/以下同じ)

 キリスト教徒である佐藤氏が、なぜ池田会長を尊敬し、これほど創価学会に強い関心を抱いているのか。連続講座の冒頭、氏はこの理由に言及する。

 いちばん強い要因を一つだけ挙げるとすれば、「創価学会の世界宗教化」という現象に対する関心です。

 いうまでもなく氏が信奉するキリスト教は、西暦313年のミラノ勅令によってローマ帝国の公認宗教となり、世界宗教となって久しい。
 ただし、そのプロセスは現代のキリスト教徒にとっても歴史書で学ぶしかない。

 それに対して、創価学会の世界宗教化は、二十一世紀のいま、本格的に始まったばかりです。私はその世界宗教化の過程を、同時代人として逐一見て体験することができるわけです。キリスト教神学者である私にとって、これほどかけがえのない体験はありません。

 2015年に出版された『創価学会を語る』(松岡幹夫氏との対談/第三文明社)で、「まえがき」を書いた松岡氏は、佐藤氏が〝創価学会は日本発の初めての世界宗教になる。将来、世界の三大宗教はキリスト教、イスラム教、創価学会になるでしょう〟と語っていたことを明かした。

キリスト教とのアナロジー

 この課外連続講座は、2つの視点が背中合わせになっている。
 1つは、創価学会がなにゆえ世界宗教になり得ると佐藤氏が確信しているのか。
 もう1つは、現代において世界宗教はいかなる条件をそなえなければならないのか、についての考察である。
 キリスト教に精通した佐藤氏は、キリスト教との「アナロジー(類推)」によって創価学会を洞察する。
 ローマ帝国でキリスト教が迫害されたのは、無力だったからではなく、「国家のなかの国家と考えられるほど有力な存在」(『キリスト教史』藤代泰三著)となったからだ。
 創価学会も戦後に急速に拡大し、1956年には国政選挙に独自候補を立てて当選させた。その結果、翌57年に池田会長(当時は青年室長)が選挙違反の冤罪で逮捕拘留された。
 しかしキリスト教は弾圧に屈せずさらに影響力を拡大したことで、ミラノ勅令による公認宗教化へと進む。
 佐藤氏は、一貫して日本の体制から圧迫されてきた創価学会が20世紀の最終盤に自公連立政権を誕生させたことを、このキリスト教の「与党化」の経過と重ねて見ている。自公連立政権は、この10月で発足から20年となった。
 先進国の政治が軒並み不安定化するなかで、日本だけが安定政権を維持できているのは、公明党が連立に加わっていることが決定的に大きい。
 さらにキリスト教は16世紀、ルターやカルヴァンによる宗教改革(プロテスタントの誕生)を経験した。
 創価学会は独自の宗教法人格をもったうえで、日蓮正宗の在家団体として宗門の発展を支えてきた。だが、出家たちは金満化して腐敗堕落していく。
 その堕落が頂点に達した90年代初頭に宗門が学会を切り捨てたことで、創価学会の「平成の宗教改革」が実現した。葬送儀礼や御本尊の下附にも出家の介在を必要としなくなったのである。
 日蓮正宗という日本の偏狭な葬式仏教と訣別したこの30年間で、創価学会は加速度的に世界に大きく広がった。

池田思想への深い理解

 佐藤氏が創価学会の世界宗教化を確信し、既にそれが現在進行形で進んでいると考える背景には、池田会長の思想に対する佐藤氏の卓抜した理解がある。
 氏は既に、会長とトインビーとの対談集を読み解く『地球時代の哲学』(潮出版社/2014年)、会長の海外諸大学と創価大学での講演を読み解く『「池田大作大学講演」を読み解く』(潮出版社/2015年)を刊行し、目下は月刊誌『第三文明』誌上で会長の著作『法華経の智慧』をめぐる「希望の源泉 池田思想を読み解く」を、月刊誌『潮』誌上で小説『新・人間革命』を読み解く連載を継続中である。
 この課外連続講座でも、佐藤氏は1973年の時点で池田会長が創価大学で「スコラ哲学と現代文明」と題する講演をおこなっていたことに注目している。

 これは私の解釈ですが、池田会長は一九七〇年代初頭の段階で、二十一世紀を見据えてこの講演を行ったのだと思います。やがて訪れる、創価学会の世界宗教化――その時代にあっては、ヨーロッパの人々の内在的論理を知っておく必要がある。そのためにも、二十一世紀の世界広布という平和社会の実現を担うであろう学生たちに、スコラ哲学を学んでほしかったのでしょう。

普遍性を担保するための会憲

 そして、まさにこの連続講座が実施されていた同時期に、創価学会は「会憲」を制定した。
 佐藤氏はキリスト教史を踏まえて、この会憲の内容と制定の意義を高く評価し、あわせてSGI(創価学会インタナショナル)の未来についても重要な洞察をしている。

 キリスト教の場合とは違って、各国SGIと日本の創価学会の間には、深刻な教義上の対立が生じているわけではありません。しかし、今後世界宗教化が進んでいくにつれ、そうした対立が生まれる危険性は十分にあります。その危険性をふまえて、基本的な教義について見解の相違が生じた場合、どちらが正しいかを判定するための基準として、あるいは「立ち戻るための原点」として、会憲は制定されたのだと私は思います。
 そしてそれは、創価学会の世界宗教化が本格化したからこそ必要になったのです。

 しかし、佐藤氏は創価学会が会憲によって各国のSGIを同一色に染めようとしているのではないことを、キリスト教史に照らして類推している。

 キリスト教が世界宗教化していくなかで、「ギリシア類型、ラテン類型、ローマ類型、ゲルマン類型、アングロサクソン類型、アジア類型」などが生まれていったように、各国のSGIが定着し、長い年月を経るうちには、いくつもの「類型」が生まれていくに違いありません。
 しかもそれは、かつてキリスト教に「類型」が成立していった年月よりも、はるかに短い年月で成立するはずです。キリスト教の類型が成立するまでに数百年の歴史を要したのは、交通網も情報伝達技術も未発達だった時代ゆえでもあるからです。

 そして、氏は高度情報化社会だからこそ、SGIの場合はむしろ国・地域ごとに類型が生まれてくるだろうと予想し、こう述べている。

 世界宗教としての創価学会は、国ごとに異なる文化土壌の「特殊性」を尊重しつつ、根本の教義という「普遍性」を共有する形で発展していくのです。
 言い換えれば、世界宗教にとっての「普遍化」とは、世界中の国々を同じ一色に染め上げることではないのです。共通の普遍性を根幹に持ちつつ、各国が固有の文化を保ったまま、異なる色の花を咲かせる――まさに桜梅桃李、百花繚乱のありようこそが、世界宗教にふさわしいのです。そして、根幹となる普遍性を担保するものこそ、世界宗教化を見据えて制定された創価学会の「会憲」です。

善悪二元論の独善に陥るな

 佐藤氏は世界宗教の今日的要件として、最後にエキュメニズムに言及している。それは、世界の宗教を統一しようというような発想とは対極にある「宗教間対話の思想」である。
 そして、キリスト教世界がキリスト教以外の人々との対話へ舵を切ったよりも早い時点で、池田会長が宗教間対話を始めていたことを「先駆的偉業」と評している。
 一方で、氏はこの連続講座の締めくくりで、ラインホールド・ニーバーの語った「光の子」と「闇の子」に言及する。

 悪に対する怒りは、もちろん世界宗教にとっても大切な要素です。しかし、自らを無反省に正義と決めつけ、自分と異なる思想や宗教を持った相手を悪と決めつける短絡は、厳に戒めなければなりません。

 宗教的な正義感が独善的になり、社会の複雑さを直視することなく「光の子」と「闇の子」の論理で善悪二元論化する罠に陥ってはならないと、佐藤氏は警告しているのである。
 その意味で、創価学会が目下、国の内外でまさに挑戦しているのは、「自分と異なる思想や宗教を持った相手」と、いかに対話し、忍耐強く信頼関係を深め、よりよい未来へ歩を進められるかということだ。
 ここに思慮が及ばず、善悪二元論で自分を正義の側に置き、浅薄な〝悪の糾弾〟に酔って、創価学会が変質したかのように批判する人々がいるのは無慚というしかない。
 いかなる人間にも仏界があるという仏法の平等思想を、複雑な現実社会で体現していくこと。
 社会の変革は常に1人の人間革命から始まるという確信に立ち帰ること。
 このことによってのみ、創価学会は真の意味で世界宗教になり得るのであろう。

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