連載エッセー「本の楽園」 第121回 個人のたたかい

作家
村上政彦

 詩人・茨木のり子が1967年に出版した『うたの心に生きた人々』は、与謝野晶子、高村光太郎、山之口獏、金子光晴を取り上げた本だった。それが童話屋から1人ずつの分冊として刊行された。本作のタイトルは、『個人のたたかい――金子光晴の詩と真実』。評伝である。
 僕は、金子光晴の詩を、ほとんど読んでこなかった。詩人の生涯も知らない。かつて彼が制作した家族詩集をこのコラムで取り上げたが、あのときに読んだのが、ほぼ初めてといっていいかも知れない。
 そして、大切な詩人を読み落としていたとおもった。著者は、結びの言葉として、こんなふうにしるしている。

皆にまだはっきりとは意識されてはいないけれども、この人の存在そのものが、日本を深いところで支える大きな手の一つであることを、時は次第に解明してゆくだろう

 茨木のり子がそれほど評価する詩人。詩は、もちろん読む。しかしその生涯も、知っておきたい。そんなわけで、この評伝を手に取った。小さい。薄い。ハードカバーなのだが、文庫本ほどの大きさで、「あとがき」を含めて153ページだ。
 あっさり読めた。しかし読後感はずっしりと重い。冒頭、戦争賛美詩を書いた高村光太郎の名を挙げて、

まったくべつの生き方をした詩人に、金子光晴がいます。いのちの危うさもかえりみず、発表するあてもない反戦詩を、しかも今日読んでも少しの古さも感じさせないすぐれた反戦詩をたったひとりでぞくぞくと書いていたのです

 戦争が終わって、いのちの危うさを感じることもなく、反戦詩を書くのは、誰にでもできる。戦争反対――ほら、僕にだって書ける。だが、言論統制が敷かれ、治安維持法という悪法があって、国家の意志に逆らうものは、いつでも牢獄に囚えておくことができる時代に、書ける自信はない。
 そういうときこそ、反戦の旗を掲げたいという気持ちはある。でも、本当にできるかどうかは、そのときになってみないとわからない。
 金子光晴は、代々の酒屋の子として生まれた。兄が2人。弟と妹が1人ずつ。2歳のとき、親戚の髪結いに預けられ、客として来ていた金子という苗字の16歳の若妻に愛され、養子になった。金子の家は裕福だったという。
 小学校4年生で東京へ移住した。このころプロテスタントの洗礼を受ける。やがて「平民の学習院」といわれた暁星中学校へ。ここはフランス人が経営していたので、西洋への憧れがそうさせた。
 成績はよかった。ところが学校を休んで、漢籍や江戸文学を読み耽るようになった。『十八史略』『史記』『春秋左氏伝、『八犬伝』『弓張月』など、手当たり次第に読む。200日、学校を休んで3年生を2回やった。
 早稲田大学英文予科に入った。ここでも読書は続く。特に好んだのは、ロシアの作家アルティバーシェフとドイツの思想家スティネル。彼は2人の文人からエッセンスを吸い取ってみずからの生き方に結晶させていく。
 早稲田は1年で中退した。上野の美術学校に入るが、ここは3カ月で退学する。次に入った慶応大学英文予科も1年でやめた。ずっと読書をしていたのかとおもいきや、なんと「ナンパをしていた」らしい。
 数年、上流階級の女学校に通いつめ、女子学生に声をかけまくる。成果は、2、3人の女学生とお茶を飲む程度に終わり、娼婦を買うようになった。22歳で肺を患って入院していたら、見舞いに来てくれた友人が自作の詩を見せてくれた。
 真似をして書いてみたところ、「とてもいい」と褒められた。ここから詩人・金子光晴の物語が始まる。
 このころすでに養父は亡くなっていて、現在に換算して2億円ほどの遺産をもらっていた。それで鉱山に手を出して、すっかり遺産を減らしてしまい、廃業した。24歳で第一詩集『赤土の家』を自費出版した。
この詩集はホイットマンの大きな影響を受けていた。金子光晴は、「みずからの世界観、人間観をもすっかり変えられてしまったほど痛烈に」「(デモクラシー詩派の)その精神の根本のところを、えぐりとっていた」が、詩壇からは黙殺された。
 骨董商をしている養父の友人から洋行に誘われた。ヨーロッパへ行こう、海外を見ておけば人間が変わる、と。金子光晴は彼の分の旅費も肩代わりしてやって、イギリスに着いた。ロンドンで半年暮らした。
 骨董商は、彼を仕込んで独り立ちさせてやるつもりでいたが、まったく商才のないことがわかり、君には芸術家が向いている、とベルギーで別れた。金子光晴は居酒屋の二階に下宿して、毎日、原書でヨーロッパの詩集を読破していった。これが彼の詩人としての道を決めた。
 書き溜めた詩のノートは20冊。そのうち17、8冊はペルシャ湾に投げ捨て、東京に戻った。残った詩のノートを整理して、詩集『こがね虫』を出版する。「有望な新進詩人」として注目された。
 同人誌『風景』を企画し、同人の1人、森美千代と恋仲になった。やがて乾(けん)という息子に恵まれたが、在学中の出産で美千代は女学校をやめさせられた。家族は、ひどい貧しさの中で暮らした。
 当時、日本の文芸界隈はプロレタリア文学一色に染まっていた。金子光晴は、次から次へと流行の衣装を身にまとう愚かしさを知っていたので、詩風を変えなかった。そんな苦しい時代、美千代が東大の学生と不倫を犯した。
 夫婦は、苦境を開くために日本を逃れてヨーロッパをめざした。しかし手持ちの金では名古屋までしか行けない。途中で稼ぎながら旅をすることにした。若さは無謀である。ラジオで不慣れな講演をし、著名な作家、詩人の 短冊をもらって売り、長崎までの旅費を作った。
 上海に渡ってそこでもさまざまな賃仕事で旅費を稼ぎ、東南アジアを旅絵師として巡った。やがて1人分のパリへの旅費ができて美千代を先に発たせた。金子光晴は旅絵師を続け、ようやくマルセイユまでの旅費を作った。このときの経験が、『マレー蘭印紀行』としてまとめられた。
 東京を発ってから1年半、やっとパリに着いて夫婦での生活が始まった。ここでもひどい貧乏暮らし。やらなかったのはゲイボーイだけというほど、さまざまな賃仕事をする毎日。それでもベルギーのかつての友人のおかげで、日本画の展覧会を開いて、奇跡的に絵がよく売れ、5年目にして帰国する旅費ができた。
 このあいだ、金子光晴はメモに手慰みの詩を書くだけで、文学とはほとんど縁が切れていた。だが、彼の見開かれた眼は、世界と人間を凝視していた。詩人としての心は大きく育っていたのだ。
「鮫」という詩を友人が見つけ、中野重治に読ませた。この詩は、「ヨーロッパの、東南アジアにおける植民地主義を、凶悪なサメの姿に託してうたった、強烈な、いきどおりのうた」だった。
 それが雑誌に発表されると、次々と執筆の依頼がやって来た。彼の詩は、

日本軍部への批判、反戦論、日本人の封建的性格の解剖などを象徴していたのですが、象徴主義というかくれみのを着て書かれていたために、おいそれとはテーマをみつけだせないようになっていました。けれども、わかる人にははっきりとわかり、暗黙の支持も根強かったのです

 帰国後、金子光晴が「モンココ石粉株式会社」の宣伝部に就職したことで、家族は3人で生活できるようになった。夫婦仲も落ち着いた。しかし時代は騒乱へ。日中戦争が始まった。詩集『鮫』を世に問うつもりでいたときだった。
 これは出版できないか、と諦めていたら、心ある出版人が、こんなときだからこそ出しましょうと後押ししてくれた。彼は、「商業視察」の名目で中国へ渡り、戦場を見て回った。そして侵略戦争の悲惨さを目撃し、反戦の覚悟を固めた。
 戦争が進むにつれて、国内では、「日本文学報国会」が結成され、文学者は競って戦争に協力した。だが、彼は拒んだ。

金子光晴がもっとも大切にしたのは「個人」というものでした。国家権力にも強制された思想にも、そっぽを向いて、「自分自身の頭で考える、自分自身のからだで感じとる」という根本の権利を、なにものにもゆずりわたそうとしませんでした

 彼らは息子の乾に召集令状が来たとき、医療的な工作によって徴兵を免れた。そして、

疎開先の山中湖畔の平野村で、金子光晴は、たくさんのすぐれた詩をぞくぞく書いています。誰に見せるでもなく、発表するでもなく、ただ、「詩の灯」を守るために、書かずにはいられなかったからです

 戦後の金子光晴は、「人間の本質の究明」をテーマにして若々しい詩を書いた、と著者は評価する。それは彼の新しい挑戦だったのだろう。80歳で旅立つまで、詩の最前線を歩み続けたことは、私たちの国では稀なことではないか。

オススメの本:
『個人のたたかい――金子光晴の詩と真実』(茨木のり子/童話屋)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。