連載エッセー「本の楽園」 第108回 一汁一菜というシステム

作家
村上政彦

 朝は味噌汁がないと調子が出ない、という人がいた。いまはパン食が増えて、トーストとコーヒーだけという人も少なくない。しかし、あの、朝の味噌汁の匂いは、いいものだ。僕にとっては、育ての親だった祖母の思い出にもつながっている。
 僕は、カレーが好きだ。パスタも好きだ。ラーメンも、ハンバーガーも好きだ。ついでにソース焼きそばも好きだ。だから、僕の家の食卓には、さまざまメニューが並ぶ。いつも味噌汁が出るとは、限らない。
 ところが、ときどき白い炊き立てのご飯、納豆、焼き鮭、具沢山の味噌汁がセットになって並ぶことがあり、これを食べていると、なぜか、食養生という言葉が思い浮かぶ。食事をしているだけでなく、体を整えている、という感じになるのだ。
 土井善晴の『一汁一菜でよいという提案』を読んで理由が分かった気がした。土井は、

この本は、お料理を作るのがたいへんと感じている人に読んで欲しいのです。

という。
 現代人は忙しい。三食の献立を考えて、さらに作るのは大変だ。だからといって、スーパーの総菜や店屋物、弁当屋のものばかりを食べていたら、心身ともにバランスを崩してしまう。
 そこで、

少なくとも自分を守るというのが、「一汁一菜でよいという提案」です。

 暮らしにおいて大切なことは、自分自身の心の置き場、心地よい場所に帰ってくる生活のリズムを作ることだと思います。その柱となるのが食事です。一日、一日、必ず自分がコントロールしているところへ帰ってくることです。
 それには一汁一菜です。一汁一菜とは、ご飯を中心とした汁と菜(おかず)。その原点を「ご飯、味噌汁、漬物」とする食事の型です。

 一汁一菜とは、ただの「和食献立のすすめ」ではありません。一汁一菜という「システム」であり、「思想」であり、「美学」であり、日本人としての「生き方」だと思います

 冒頭から何やら食をめぐる哲学的な考察が始まるようだが、これは料理の実践家の本だから、具体的な一汁一菜の作り方も出てくる。四季の旬を取り入れた味噌汁の作り方は、とても参考になる。
 そして、土井は日常的に食卓にのぼる家庭料理は、飽きない味であって、工夫しすぎないことが大切だという。一汁一菜を基本にしておけば、ときには中華料理や洋食をこしらえて、食卓の趣を変えても、また、基本に戻っていけば、料理をせずにすませる、という事態に陥らない。
 土井によれば、食事とは、買い物、下ごしらえ、調理、料理、食べる、片付ける、ことの総称である。料理をしなくなることは、

食べるために必然であった行動(働き)を、捨てること

であり、

「行動」(働き)と「食べる」の連動性がなくなれば、生きるための学習機能を失うことになり

大いに心の発達やバランスを崩す

ことになる。
 きちんと生きるために、きちんと料理をする。それは一人暮らしであっても。それが生活することである。そのためには、一汁一菜でいい、というのが土井の提案だ。
 確かに、うちの妻も三度の献立を考え始めると、うんざりしてくるらしい。それは分かる。僕は料理をしないが、妻の立場になれば、そうだろうとおもう。だから、あまり、あれ作って、これ作って、はいわない。出されたものを、おいしいと食べる。
 たまに、何か食べたいものがあるか? と訊かれたら、そのときの腹と相談してリクエストする。
 土井は、一汁一菜を日本人らしさや、本居宣長の「もののあわれ」にも、結びつけて考えるが、このあたりは議論のあるところだろう。興味のある人は、読んで考えて欲しい。しかし――
 一汁一菜は、生活のシステムとしては、すぐれている。この本は、妻にプレゼントしよう。うちも一汁一菜を実践して、彼女を解放してやろう。

お勧めの本:
『一汁一菜でよいという提案』(土井善晴著/グラフィック社)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。