投稿者「web-daisanbunmei」のアーカイブ

連載エッセー「本の楽園」 第82回 僕はグレン・グールドになりたかった

作家
村上政彦

 小学生のころ、門のある大きな家が並ぶ住宅街を歩いていると、ピアノの音が聴こえてくることがあった。僕は、それを弾いている人を想像した。たぶん少女で、髪は長く、白いブラウスを着て、赤いスカートを身につけている。そして、なぜか、白いハイソックスを履いている。
 傍らには、美しい母親がいて、少女がピアノの練習を終わると、おやつを運んで来る。それは、どうしても、苺ショートと紅茶でなければならない。僕は、そんな生活とは無縁の、貧しい長屋暮らしだったので、よけいに妄想をたくましくした。
 あるとき、酒場へ出勤するため、化粧をしていた母に、ピアノを習わせてほしいと頼んだことがある。彼女はふんと鼻で笑って、貧乏人の子供がピアノ習うてどうするんや、と手を休めずに言った。 続きを読む

「周―池田」会見45周年(下)――池田会長が貫いた信義

ライター
青山樹人

そこに人間がいるからです

 池田会長が2度の訪中をおこなった1974年当時、中国はソ連と激しく対立していた。
 1950年代からイデオロギー対立を深めていた両国の関係は、69年に国境問題をめぐって大規模な軍事衝突に至る。双方の指導者は互いに公然と核攻撃に言及し、中国では北京などに核シェルターが建設された。
 72年に中国が米国のニクソン大統領を北京に迎え、日本とも国交正常化したことは、ソ連の国際的孤立をさらに深めていたのである。
 こうした状況下で、74年5月に初訪中した池田会長は、モスクワ大学の招聘を受けて9月8日にソ連を初訪問する。
 日中国交正常化提言と同じく、ここでも池田会長は恩師・戸田会長の原水爆禁止宣言の日を選んだのだった。 続きを読む

「周―池田」会見45周年(中)――日中国交正常化への貢献

ライター
青山樹人

真に尽力しているのは誰か

 入院中であった周恩来総理が医師団の反対を押しきってまで、池田大作・創価学会会長と会見したのはなぜか。
 中国を代表する歴史学者であり「史学大師」とまで称された章開沅・華中師範大学元学長は、

 中日友好を何よりも重視した周総理は、中日友好のために真に尽力している人は誰なのかを知っておられたのでしょう。だからこそ、重い病の身を押して、池田先生とお会いになられたのだと思います。(『人間勝利の春秋』第三文明社)

と述べている。
 1949年10月に中華人民共和国が建国された。だが、日中戦争で筆舌に尽くしがたい暴虐をはたらいた日本との関係は絶たれたままであった。 続きを読む

「周―池田」会見45周年(上)――文献的に確定した会見の意義

ライター
青山樹人

「一期一会」の会見

 1974年12月5日の午後10時近く。
 中国の周恩来総理は、池田大作・創価学会第3代会長と北京市内で「一期一会」となる会見をした。会見は、周総理の強い意向によるものだった。
 じつはこのとき周総理は中南海にある要人専用の三〇五病院に入院中で、医師団の厳重な管理下にあった。
 同日の午前中に池田会長と人民大会堂で会見した鄧小平副総理(当時)も、総理の病状が思いのほか深刻で入院中であることを会長に明かし、〝総理自身が池田会長に会いたいという思いを持っているようだが、今は誰とも会わないように皆が止めている状態だ〟と伝えていた。 続きを読む

宿命を使命に変えるということ――書評『ブラボーわが人生』

ライター
本房 歩

現証がちゃんとある

 登場するのは、80代、90代。なかには100歳を超えた方もいる。
『聖教新聞』で大好評を呼んでいる連載企画「ブラボーわが人生」から18編が、要望に応えて書籍化された。
 ページをめくりながら、まず目に飛び込んでくるのは、おひとりおひとりの大きな写真。
 どの顔も美しく、喜びと慈しみに溢れ、そして力強い。人生の最終章を、こんな表情で生きられるとしたら、人生とはなんと素晴らしいものなのだろうと実感する。
 いずれも、戦争をくぐり抜け、戦後の貧しい時代を生き抜いてきた「庶民」である。
 かつて草創期の創価学会を、世間の心ない人は「貧乏人と病人の団体」と嘲笑した。それに対し、第2代会長の戸田城聖氏は

貧乏人と病人を救うのが本当の宗教だ

と誇り高く応じた。 続きを読む