「周―池田」会見45周年(下)――池田会長が貫いた信義

ライター
青山樹人

そこに人間がいるからです

 池田会長が2度の訪中をおこなった1974年当時、中国はソ連と激しく対立していた。
 1950年代からイデオロギー対立を深めていた両国の関係は、69年に国境問題をめぐって大規模な軍事衝突に至る。双方の指導者は互いに公然と核攻撃に言及し、中国では北京などに核シェルターが建設された。
 72年に中国が米国のニクソン大統領を北京に迎え、日本とも国交正常化したことは、ソ連の国際的孤立をさらに深めていたのである。
 こうした状況下で、74年5月に初訪中した池田会長は、モスクワ大学の招聘を受けて9月8日にソ連を初訪問する。
 日中国交正常化提言と同じく、ここでも池田会長は恩師・戸田会長の原水爆禁止宣言の日を選んだのだった。
 だが、宗教者が共産主義国を訪問することには、学会の首脳陣からも国内外からも反対の声があがっていた。招聘したソ連側でも、グロムイコ外相など指導部の一部には宗教者の訪ソは不適切だとする雰囲気があったと、元モスクワ大学副総長のウラジミール・トローピン氏が著書に記している。
 なぜソ連などに行くのかと問うた日本の旧知の財界重鎮に対して、池田会長は言下に答えた。

 そこに、人間がいるからです。人間に会いに私は行くのです。共産主義の国であろうが、資本主義の国であろうが、そこにいるのは、平和を願う、同じ人間ではないですか。
 ですから私は、その人間の心と心に橋を架け、結ぶために行くんです。(『新・人間革命』第20巻)

「ソ連は中国を攻めない」

 ノーベル文学賞作家のショーロホフ氏との会見、モスクワ大学と創価大学の教育交流議定書の調印など10日間の日程を終えようとしていた最終日の17日。池田会長はクレムリンでコスイギン首相と会見した。会見は前日に知らされたものだった。
 この会見で池田会長は、

 ソ連は中国を攻めますか?

と単刀直入に首相に問うた。
 首相は鋭い眼光で会長を見すえ、意を決したように

 いいえ、ソ連は中国を攻撃するつもりはありません。

と答えた。
 会長が続けて、

 それをそのまま、中国の首脳部に伝えてもいいですか?

と尋ねると、首相は一瞬の沈黙ののちに

 どうぞ、ソ連は中国を攻めないと、伝えてくださって結構です。

と言明した。
 初訪ソにあたって、会長の胸中には日ソの友好の道を開くことはもちろん、なによりも中ソの架け橋となって核戦争の危機を回避しなければならないという強い思いがあったのだ。
 池田会長が2度目の訪中をしたのは、その2カ月半後だったのである。
 会長はコスイギン首相の言葉を、中日友好協会の廖承志会長を通して中国の首脳に伝えた。
 12月5日の深夜におこなわれた周恩来総理と池田会長との会見には、廖承志氏も同席している。

ありのままに伝える責務

 この第2次訪中をするにあたって、池田会長が貫いた信義がもう一つあった。
 会長は5月の初訪中を終えると、多忙を極める日程のなかで、日本のさまざまな紙誌の求めに応じて中国の印象を執筆したのである。
 それは、

 帰国して一週間ぐらいの間に書いた分量が、一冊の本にまとめられるほどになってしまい、われながら驚いている。(『中国の人間革命』毎日新聞社刊の「序文」より)

というほど精力的なものだった。
 国交が正常化したとはいえ、まだ文化大革命の渦中である。日本には中国に関する情報そのものが乏しく、偏ったもの、ネガティブなものが目立っていた。友好は互いを知ることからはじまる。

 それだけに、少しでも中国へ行った人々が、その見聞をありのままに伝える義務と責任があるといった、使命感にも似た感情が、終始、私の胸をとらえていたのである。(同)

 池田会長が一般の紙誌に寄稿したこれらの文章は、この『中国の人間革命』という単行本となって毎日新聞社から発刊された。
 しかも、第2次訪中になんとか間に合うように刊行して、刷り上がったばかりの本を中国の人々にも届けている。
 会長の訪中は1974年12月2日からであったが、同書の奥付の発行日は12月5日。奇しくも周総理との会見の日となっていた。
 なによりも池田会長は、「一期一会」の会見で周総理から託された責務に全力で応え続けた。
 周総理の母校である南開大学の周恩来研究センターが刊行した『周恩来、池田大作と中日友好』は、こう記している。

 七四年十二月五日、周総理は池田会長と会見した折、「二十世紀の最後の二十五年間は、世界にとって最も大事な時期です。すべての国が平等な立場で助け合わなければなりません」と語った。中日友好を促進していくという重大な責務が周総理から氏に引き継がれたのである。
 池田会長は、まさに言行一致であり、語ってきたことを実現してきた。率先して中日国交正常化を提唱しみずから推進した後、世々代々の友好の壊れることのない〝金の橋〟を築いていくことに重点を置いた。

万代の友好へ行動する

 会見の翌75年には、会長自身が身元引受人となって新中国から初となる日本への国費留学生6人を創価大学に迎えた。
 2019年5月まで史上最長の9年余にわたって特命全権大使として日本に赴任し、民主党政権時代に〝国交正常化以来最悪〟となっていた日中関係の修復に尽力した程永華氏も、その留学生の1人である。
 会長が創立した民主音楽協会は、中国北京芸術団、中国国家京劇院、東方歌舞団、中国雑技団など、周総理が育んだ団体を中心に40以上の文化団体を招聘し、公演回数は計2100回を超えている。
 また同じく東京富士美術館は、中国敦煌展などを日本で開催したほか、所蔵する最高レベルの西洋絵画の展覧会を北京の中国美術館(1992年)、清華大学芸術博物館(2018年)などで開催してきた。
 創価大学は中国本土だけで54の大学(2019年11月現在)と学術交流を結んで、学生や教員の交流、研究交流を進めている。
 さらに青年による世々代々の友好を築くため、1985年には全青連(中華全国青年連合会)と創価学会青年部の間で交流議定書が交わされた。
 調印の際に池田会長は日程を変更して地方から帰京し、全青連の一行を迎えた。この中国側の団長が、のちに国家主席となる胡錦濤氏であり、副団長が現在の李克強首相である。
 今日から振り返るとき、1974年12月5日の周総理と池田会長の会見は、2人が命がけで開いた日中国交正常化の一つの到達点だったことがわかる。
 同時に、池田会長がこの会見を新たな出発点として、周総理の遺志をことごとく実現してきたことも歴史に照らして明白であろう。

 時は去り 時は巡り
 現(うつ)し世に 移ろいあれど
 縁(えにし)の桜は 輝き増して
 友好の 万代なるを 語り継げり
 我も称えん
 心の庭に 友誼の桜は 永遠なりと
      (「桜花の縁」歌詞)

「『周―池田』会見45周年」:
「周―池田」会見45周年(上)――文献的に確定した会見の意義
「周―池田」会見45周年(中)――日中国交正常化への貢献
「周―池田」会見45周年(下)――池田会長が貫いた信義

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