連載対談 哲学は中学からはじまる――古今東西を旅する世界の名著ガイド

福谷 茂 ✕ 伊藤貴雄

第3回 各教科と哲学のつながり――①科学(理科)と哲学(上)

(対談者)
福谷 茂(京都大学名誉教授、創価大学名誉教授)
伊藤貴雄(創価大学文学部教授)

中高生時代の自分に推薦する哲学書は?
~福谷「三浦梅園の『三浦梅園自然哲学論集』」

伊藤貴雄 福谷先生は、もし中学生だった自分に哲学の本を推薦するとしたら、どんな本を勧めますか。

福谷 茂 そうですね。「高校生向け」くらいになるかもしれませんが、やはり三浦梅園(※)ですね。
 知性のあり方の原型というものが、三浦梅園の思考にはあるからです。

伊藤 三浦梅園といえば、一種の総合的な自然論というか、コスモロジー(※)的な哲学で知られていますね。

※三浦梅園(1723-1789)…江戸中期の儒学者・自然哲学者。「条理学」を構築し、自然と人間の関係を理と条で説明。経験と理論の統合を重視し、近代的哲学者として評価された。

※コスモロジー…ギリシャ語「コスモス」に由来し、宇宙の起源・構造・進化を考える理論。科学では天文学や物理学の宇宙論を指し、哲学では人間と宇宙の関係を問う視点を含む。

『三浦梅園自然哲学論集』(尾形純男・島田虔次 編注訳/岩波文庫)

福谷 当時、岩波文庫のものが50円で売っていましたから、中高生でも、小遣いで買えました。
 長野県の先生方の研修でも、『三浦梅園自然哲学論集』を取り上げたことがありました。
 梅園の哲学は「哲学」という言葉では縛られないもので、最も優秀な日本人が、鎖国の中で、いわば独力で、どんなふうに物事を考えていたかがよくわかる本です。
 梅園は国東半島出身(大分県・北東部)で、たとえば桜島の噴火が起こったとき、すぐに「この火山の噴火をどう考えるべきか」という文章を書いています。
 噴火を「異常事態」と捉えること自体が間違いで、むしろ「通常の状態」であって、むしろそこに「異常事態」を解明する鍵が全て与えられている、と梅園は言っている。
 つまり、全ての物事について人間を中心にして考えることが、いろいろな迷信の根本になっている、というのが梅園の考え方です。
 それは、「多賀墨卿(ぼっけい)君にこたふる書」という弟子に宛てた書簡に書かれています。いわば科学的な思考の原点であり、永遠の古典です。昔の岩波の文庫本にも入っていたし、新しい文庫本には現代語訳付きで入っています。
 三浦梅園の書いたもので、いちばん難しいとされている「玄語」は漢文で書かれていて、当時の僕もなかなか手が出せなかった。確か、丸山眞男(※)の弟子で、高校の先生をしていた尾形純男(※)が読み下して、現代語訳にまでしてくれています。

【三浦梅園「多賀墨卿君にこたふる書」の現代語訳から一部抜粋】(段落・改行・カッコは編集部)
 とかく人は、人の心をもってものを考え分別するので、人間の立場を固執するくせがやめられず、古今の明哲といわれる人たちもこの習気(じっけ)になやまされ、人をもって天地万物をすべて解釈し、そのために達観の眼が開けないのです。
 その習気とは何か。人は行くことを足でし、こしらえることを手でするので、ものの運び、はたらきを考えるにも、手足の習気がつきまとう。
 したがって蛇に足がなく魚に手がないのが、どうも不自由に思われてしまう。だが、天は足なくして日夜にめぐり、造化は手なくして花をさかせ、をさずけ、魚をも鳥をも造り出す。
 もし人が人間に固執するようなところがあると、そこから、人間とは異なる自然の運転・造化ははなはだあやしむべきことになります。

 
伊藤 中学生の頃に科学少年だった福谷先生にとって、日本人が科学的思考を日本語で表現している三浦梅園の思想は、「哲学」そのものだったのですね。日本人が科学的思考というものを日本語で表現していること自体が「これはもう哲学だ」と思われたのではないでしょうか。
 僕らの学生時代には、哲学といえば基本は西洋哲学で、それ以外の思想は「哲学ではない」というような教育を受けていました(笑)。
 いわば「正統の路線」から外れたら、それはもう哲学ではない、というような感覚がありました。
 多様性の時代を迎えた今、哲学界も、異なる文化圏、宗教圏、時代背景を持つ「知の発露」を、すべて「哲学」として包摂する方向で再構築する流れがあります。
 日本で起こる大地震や津波、あるいは台風は、今でも起きていますが、僕たちは自然災害をどう捉えたらいいのか。
 三浦梅園を読めば、現代の地震や津波、台風などの自然災害をどう考えるのかがよくわかります。

福谷 今でも本当に、三浦梅園はそのまま読めるんですよ。
 結局、頭のいい人というのは、どの時代に生きていても、ちゃんと真っ当に考えているんだなということを、三浦梅園を通して実感します。
 それから、伊藤先生が話されたように、「日本の科学思想」とは何かという問題が確かにあります。
 もちろんヨーロッパの科学思想もありますが、梅園の思想は哲学と完全に一体化しているように思えます。
 それを踏まえて言えば、日本の科学思想と日本の哲学というものを重ね合わせて考えることができる、そんな可能性があるのではないかと思うんです。

※丸山眞男(1914-1996)…政治学者・思想史家。東京大学教授として日本政治思想史を研究し、戦後民主主義の理論的支柱となった。代表作で近代化や権威主義を分析し、民主主義理念を広めた。

※尾形純男…戦後の思想史研究者で丸山眞男の弟子。高校で哲学や政治思想を教え、幅広い読書リストを提示。三浦梅園研究にも取り組み、大学ではなく高校教育で独自の役割を果たした。

科学者と哲学と随筆――文理融合モデル
~福谷「寺田寅彦の『寺田寅彦随筆集』(全5巻)」

編集部 福谷先生、梅園の他に中高生だった頃の自分に勧めたい哲学書はありますか。

福谷 三浦梅園の次に紹介したいのは寺田寅彦(※)です。

※寺田寅彦(1878-1935)…科学者、物理学者、随筆家。東京帝国大学で地震や物理を研究しつつ、自然や社会を哲学的に考察した。科学と文学を結びつけ、「科学者は芸術家でもあるべきだ」と説いた。随筆『天災は忘れた頃にやって来る』は有名で、自然の不確実さと人間の姿勢を問いかける。科学と哲学の橋渡しをした人物として、日本の知の伝統に大きな影響を残した。

伊藤 三浦梅園が江戸時代の思想家だとすれば、寺田寅彦は夏目漱石の弟子筋にあたる、近代の人ですね。
 本職は科学者でありながら、一流の文章家でもあったという点が非常に面白いです。

『寺田寅彦随筆集』(岩波文庫)

福谷 寺田寅彦は、古代ローマの哲学者・ルクレティウス(※)について、非常に長い論文を書いています。それに本格的に取り組んでいて、そこから手を広げて導き出している結論がすごい。いまの現代が使っているような科学的なアイディアは、すべてルクレティウスの中にある、と。
 しかも、そのことを当時第一線にいた科学者の寺田寅彦が発見したというのが重要なんです。
 彼は、友人だった安倍能成(※)が書いた西洋哲学史を読んで面白いと思い、文献を自分で取り寄せて何十ページもの大論文を書き上げました。それは岩波文庫に収録されています。『寺田寅彦随筆集』(岩波文庫)の第2巻にある「ルクレチウスと科学」です。
 これは中学生ではなく、高校生向けにちょうどいいかもしれませんが、長野県の先生方を対象にした読書会で取り上げました。
 教え方次第では、中学生のテキストとしても使えると思います。

『物の本質について』(ルクレーティウス著、樋口勝彦訳/岩波書店)

※ルクレティウス…古代ローマの詩人・哲学者。『物の本質について』で原子論を詩に表し、自然を法則で説明し後の科学思想に影響を与えた。

※安倍能成(1883-1966)…哲学者・教育者。カント研究と教養主義を貫き、第一高等学校校長や文部大臣を務め、漱石とも親交を持ち教育改革に尽力。

伊藤 寺田寅彦の随筆はとてもわかりやすく、当時の物理学や数学のホットな話題を、現代人でも理解できる日本語で書いてくれています。
 たしか、彼は夏目漱石の『三四郎』の登場人物のモデルだったでしょうか。

編集部 『吾輩は猫である』の水島寒月(※)も、『三四郎』の野々宮宗八(※)も、寺田寅彦がモデルだと言われています。

伊藤 野々宮宗八でした。たしかに漱石門下ですね。
 寺田寅彦の随筆は、中学生、あるいは高校生でも読めると思います。

福谷 ええ。僕が中学生の頃から一度も絶版になっていない。
 それだけ、文化的な価値が高いということです。

※水島寒月…夏目漱石の『我輩は猫である』に登場する理学士。漱石の弟子で物理学者の寺田寅彦がモデルとされ、師弟関係を文学に反映した人物。

※野々宮宗八…夏目漱石の『三四郎』に登場する研究者。光の圧力実験に没頭する姿が描かれ、物理学者寺田寅彦を投影した人物とされ科学者像を示す。

伊藤 本当に話題が豊富です、寺田寅彦の随筆は。どんなテーマも論じていて、まるで百科事典のようです。リベラルアーツ(※)の宝庫ですね。

福谷 あたり外れがほとんどありませんね。

伊藤 映画論も多い。

福谷 映画ってなんだろう、どういうジャンルの芸術なんだろう――そういう問いかけがありますよね。
 映画と俳諧が繋がっている、なんていう考察もあります。
 たとえば、映画の「カット割り」(※)というのは、まさに俳句的です。

※リベラルアーツ…古代ギリシャ・ローマに起源を持つ「自由人の学問」。専門に偏らず、言語・論理・数学・自然・社会など幅広い知を学び、批判的思考や表現力を養う。現代では大学教育の基礎として、知識の総合的理解と人間的成長を目指す学びを指す。

※カット割り…映画や映像でシーンの順番や構図を決める技法。物語や感情表現、観客の視線誘導を意図し演出を計画する重要な編集技法。

伊藤 理科系的な発想と、文化・芸術・文学的なものが融合している。ある種の「文理融合モデル」(※)ですね。
 しかも今読んでも、苦労せず理解できる日本語で書かれています。まさに、日本における「文理融合の哲学者」です。

福谷 まったくその通りです。類を見ない。
 以前、「科学者随一の随筆家」として寺田寅彦を挙げたことがあります。彼は少し別格です。俳句も一流、科学も一流。
 当時の東京帝国大学の物理学科には、「長岡半太郎(※)vs.寺田寅彦」という対立構図があった。
 長岡半太郎はヨーロッパ式の「直輸入系物理学」の代表でしたが、そこから見ると、寺田寅彦の物理学は「文学青年がやっている物理学だ」と皮肉られていたんです。
 しかし、寺田寅彦の学統(学問上の系統)は続いています。たとえば、伊藤先生も受験参考書で読まれたかもしれませんが、竹内均(※)は寺田寅彦の〝最後の学徒〟ともいえる存在です。

伊藤 竹内均は、面白い科学随想をたくさん書いていますね。「知的生きかた文庫」(三笠書房)でよく読みました。

福谷 竹内均は物理の教科書や、受験対策の参考書まで書いていましたよね。中学生向けのものから始めたそうですが、「それで生活は安定した」と、本人も語っている(笑)。

※文理融合モデル…文系と理系を分けず知識や方法を組み合わせ課題に挑む考え方。環境やAIなど複雑な問題に科学と社会理解を両立させる。

※長岡半太郎(1865-1950)…物理学者。「土星型原子模型」を提唱し日本物理学の基礎を築いた。教育者として弟子を育て国際的舞台で日本を示す。

※竹内均(1920-2004)…地球物理学者。潮汐研究で成果を残し『Newton』初代編集長として科学啓蒙に尽力。教育にも力を注ぎ幅広く活動した。

伊藤 それから、『寺田寅彦随筆集』第4巻に「科学者とあたま」という文章があるんです。とても印象的なので、読んでみたいと思います。

 頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには、自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。
 科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者(うぐしゃ)の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である。(『寺田寅彦随筆集』(四)「科学者とあたま」 ※編集部注=不適切な表現もそのまま引用した)

 
 こういう言葉があるんですよ。これもある種の「文理融合」的なあり方ですよね。
 
福谷 そのとおりですね。
 「雪の研究」で有名な、北海道大学の象徴にもなっている中谷宇吉郎(※)の「雪は天からの手紙である」――こういう表現力が、僕は好きなんです。

伊藤 そういう意味で、僕が好きなのは、野尻抱影(※)ですね。

福谷 『星座巡礼』の野尻抱影ですね。
 意外なのは、物理学者の中には随筆がとてもうまい人が結構いるということなんです。高木貞治(※)の随筆は見事なものですよね。人柄が滲み出ていて、読む側を惹きつける。
 寺田寅彦の初期の弟子にあたるのが、新田次郎(※)の伯父にあたる藤原咲平(※)です。藤原咲平は中央気象台の台長(現在の気象庁長官に相当)を務めてました。

伊藤 新田次郎は山岳小説で有名ですね。

※中谷宇吉郎(1900-1962)…物理学者。人工雪生成に成功し「雪の博士」と呼ばれる。随筆で科学と文学を結び「雪は天からの手紙」と表現した。

※野尻抱影(1885-1977)…天文民俗学者。星座文化や神話を紹介し科学と詩情を融合した「星の文学者」。著書『星座巡礼』(改訂・増補版は『新星座巡礼』)などで広く知られる。

※高木貞治(1875-1960)…数学者。類体論で世界的業績を残し日本数学界を国際水準へ導いた。著書『代数学講義』は名著として知られる。

※藤原咲平(1884-1950)…気象学者。台風研究で「藤原効果」を提唱。中央気象台長として日本の近代気象学を築き教育と研究に尽力した人物。

※新田次郎(1912-1980)…小説家・気象学者。『八甲田山死の彷徨』『孤高の人』などで自然と人間を描き、山岳文学の第一人者として知られる。

福谷 藤原咲平の文章も、本当に面白い。
 彼は偏見のない目で自然を観察していて、「生命とは何か」ということに関して、ある定義を提案しています。
 それは、いわゆる生命や生物という概念とは違うもので、自然現象の中にもその定義を満たすものがたくさんある、という考え方でした。
 つまり、「生命」とは、生物にだけ当てはまるものではない、と。
 定義という眼鏡を通して自然を見れば、「これは生命と呼ばなければならないのではないか」という存在がたくさんあると、藤原咲平は提言をしていた。
 実はこのことは、松岡正剛(※)の雑誌で紹介されていたものです。僕が高校生の頃に読んでいた雑誌『遊(ゆう)』に、松岡正剛が「藤原咲平曰く」と確か書いていました(笑)。
 その雑誌は当時、田舎の高校生にとっては憧れのようなものでした。まさに知の最先端がそこには詰まっていて、熱気があった。下村寅太郎のモナリザ論や、梯明秀(※)の「物質の現象学」なんかも載っていたし、哲学や科学の最先端の話題がそこにありました。廣松渉(※)も書いていました。
 松岡正剛はとにかくあらゆる分野に人脈がある方なので、そこから知を得るというのは、田舎の高校生にとっては、東京で何か起きているのかを知ることのできる、まさに〝知の山〟にロッククライミングでよじ登っていくような体験でした。

※松岡正剛(1944-2024)…編集者。「編集工学」を提唱し情報や文化を組み合わせ新しい意味を創出。『千夜千冊』などで独自の文化論を展開。

※梯明秀(1902-1996)…哲学者。西田幾多郎に師事しヘーゲルとマルクスを融合した経済哲学を構築。戦後は立命館大学で教育に尽力した。

※廣松渉(1933-1994)…哲学者。マルクス主義を基盤に「物象化論」を展開し主体中心主義を批判。人間関係を世界の根本構造とみなした。

伊藤 「生きる」という言葉をどこまで広く捉えるかという話になりますが、今の福谷先生の話で、日本の近世から近代にかけて、科学的なものの見方を日本語でしっかりと表現した哲学者たち、三浦梅園や寺田寅彦などがいたことを、改めて思い起こすことができました。
 この人たちの思考の特徴は、「とらわれがない」という点にあります。
 たとえば「生きる」という言葉を、人間だけに当てはめるのではなく、あらゆる存在との関係の中で捉える。
 もっと言えば、人間が「生きる」「死ぬ」という定義ですら、どのように決まっているのかを問い直す視点があります。
 今の日本では、医師と法律家が「死の三兆候」(※)で判断して「死亡」と診断するわけですが、生物が死んでも、体の細胞はまだ生きているし、細胞が死んでもDNAは残る。
 では、生きるとは何なのか――そういう問いを科学者たちのとらわれのない目で改めて見つめ直す。そういう哲学的視点があってもいいと思うんです。

※死の三兆候…①心拍停止、②呼吸停止、③瞳孔散大と反射消失、の三つで医学的に死を判定。医師の死亡診断基準として用いられる重要な概念。

福谷 まさに、そういうことですよね。
 「日本の科学思想」や「科学哲学」と呼ぶと少し限定的すぎるかもしれませんが、そうした視点から、哲学を取り出していくことができないかと考えてきました。
 僕が長年関わってきた活動に、中学校の先生たちとの読書会があります。
 また、長野県飯田市の「市民講座」に、僕は25年近く登壇してきたんですが、そういった場で哲学のトライアルを重ねてきました。
 けれども「日本哲学史」という枠組みは、最初からある種の限定がかかってしまっている。たとえば、寺田寅彦のような人物は、日本哲学史の枠組みには入らないと見なされています。

伊藤 結局、日本における「哲学」が他の「5教科」と同じようなものとして扱われているからでしょう。
 たとえば大哲学者の学説史があって、それに合わないものは哲学じゃない、というようなところがあります。
 もともと哲学を意味する「フィロソフィー」という言葉は古代ギリシャ語の「philosophia」(philo=愛する、sophia=知恵)に由来します。その言葉の本質を考えれば、「百科全書派」(※)もそうですが、古代ギリシャにまで遡ってみても、哲学者たちは科学者であり、医者であり、芸術家であり、音楽家でもあった。
 たとえばピタゴラスは象徴的です。数学者であり、哲学者であり、医者でもあり、音楽家でもある。
 それらを分野で区切っているだけで、本来、混然一体としているのが人間の「知」であると思うんです。
 科学者の寺田寅彦を「哲学者」として捉えることによって、僕たちの思考ももっと柔らかくなるはずです。
 つまり、「科学(理科)と哲学」が共存して、ある種の化学反応のような出会いが生まれる。寺田寅彦の随筆には、映画論もあるし俳句論もあるので、「哲学と文学」「哲学と美術」というものにもなっている。

福谷 そもそも、科学者である寺田寅彦は「唯物論研究会」(※)のメンバーでもあったんですよ。戸坂潤(※)が入会を頼みに行ったという話もあります。

伊藤 寺田寅彦の5冊の随筆集は、いわば5教科、9教科すべてを、哲学と重ね合せた「百科事典」のようなものになっています。
(第4回に続く)

※百科全書派…18世紀フランスの啓蒙思想家グループ。ディドロやダランベールを中心に『百科全書』を編集し、科学・技術・芸術・哲学を体系化。理性と批判精神を重視し、知識の普及で社会進歩を目指した。活動はフランス革命の思想的基盤となり、近代的自由や平等の理念を広めた。

※唯物論研究会…1932年設立。戸坂潤らが科学的社会認識を目指し唯物論哲学を理論化。戦時下に弾圧され活動停止も戦後思想に影響。

※戸坂潤(1900-1945)…哲学者。『日本イデオロギー論』で社会思想を分析。科学と哲学の関係を重視し戦時下の思想弾圧により獄死した。

 


ふくたに・しげる●1953年、兵庫県生まれ。1981年、京都大学大学院文学研究科博士後期課程学修認定退学。1981年、京都大学文学部助手、以後、獨協大学専任講師・同助教授、東京都立大学人文学部助教授、京都大学大学院文学研究科助教授・同准教授・同教授を歴任し、19年に京都大学名誉教授。20年から創価大学大学院文学研究科教授を務め、25年、創価大学名誉教授。京都大学博士(文学)。著作に、『カント哲学試論』(知泉書館、2009年)、共編著に『カント事典』(弘文堂、1998年)、論文に「ヘノロジカル・カント」(『日本カント研究13』所収)など。日本カント協会元会長。

いとう・たかお●1973年、熊本県生まれ。2006年、創価大学大学院文学研究科人文学専攻博士後期課程修了。博士(人文学)。2015年、ヨハネス・グーテンベルク大学マインツ ショーペンハウアー研究所客員研究員。2016年、創価大学文学部教授。2024年、創価大学附属図書館館長に就任。著書に、『ショーペンハウアー 兵役拒否の哲学 -戦争・法・国家-』(晃洋書房、2014年)、『哲学するベートーヴェン カント宇宙論から《第九》へ』(講談社選書メチエ、2025年)、編著に『シュリーマンと八王子 : 「シルクのまち」に魅せられて』(第三文明社、2022年)など。