【コラム】集団的自衛権めぐるヤンキー的なノリ――「結果」を問わない〝勢いのリアリズム〟の危うさ

ライター
青山樹人

「気合いとアゲアゲのノリ」の国

 精神分析医で評論家の斉藤環氏は、近著『ヤンキー化する日本』で、日本社会と〝ヤンキー文化〟の親和性を述べている。
「ヤンキー」とは言うまでもなく不良少年少女を指すわけだが、斎藤氏は

<むしろ、彼らが体現しているエートス、すなわちそのバッドセンスな装いや美学と、「気合い」や「絆」といった理念のもと、家族や仲間を大切にするという一種の倫理観とがアマルガム的に融合したひとつの〝文化〟を指すことが多い>

と解説する。
 それはひとことで言えば、論理や理想よりも「気合いとアゲアゲのノリ」で突き進むことを美しいと感じる文化である。
 一方で、他国の「下層文化」とは異なり、日本の特徴として「絆」や「仲間」といったある種の道徳性も兼ね備え、それは「伝統」を大切にする保守へと回収されて、社会の治安システムとして機能している面があると斎藤氏は言う。治安システムというのは、もちろん統治者側にとっての治安である。
 斎藤氏によれば、日本のヤンキー文化の淵源は、少なくとも日露戦争の勝利による勘違いにまでさかのぼれる。やがて日本は、自分たち自身が遂行不可能と結論していた対米開戦に、気合いと高揚感だけで踏み切り、戦死者の6割を餓死で占めるような泥沼へとはまっていく。〝撃ちてし止まむ〟〝すすめ一億火の玉だ〟〝本土決戦〟と、気合いのスローガンを振りかざし、すべてを灰燼に帰して、ようやく敗戦を迎えた。
 その理解しがたい歴史の過ちは、たしかにヤンキーの文化そのものであると言われてみると、身も蓋もなく腑に落ちてしまう。
 斎藤氏は、2012年の暮れに第2次安倍内閣が成立した直後、「自民党は右傾化しているというより、ヤンキー化している」という「自民党ヤンキー論」を朝日新聞(同年12月27日付)で語っている。

 その安倍首相は、本年5月15日に記者会見を開き、憲法解釈を変更して集団的自衛権を行使できる方向へ検討を進めたいと表明した。
 集団的自衛権行使の何が問題なのかは、本サイトにも転載されている元内閣法制局長官・阪田雅裕氏のインタビューが明快なので、是非そちらの一読を勧めたい。
 集団的自衛権とは

「自分の国が直接に攻撃を受けていないのに外国同士の戦争に参加するもの」(阪田氏)

である。アメリカのベトナム戦争介入、旧ソ連のチェコ介入のように、国際法上、ある国が他国同士の戦争に参加できるのは、この集団的自衛権の行使のみである。
 たしかに国連憲章はすべての国に集団的自衛権の行使を認めているが、日本の憲法9条は自衛以外の交戦権を認めておらず、自衛隊が海外で武力行使をすることは憲法に違反するというのが、自民党を含む歴代内閣の一貫した解釈だった。これを、安倍晋三首相とその周辺は変えようとしているのである。

首相会見で展開された〝論理ではなく情緒〟

 首相の私的な懇談会に過ぎない「安全保障有識者懇談会」の報告書を受け、安倍首相が5月15日に開いた記者会見の内容は、首相官邸ホームページで閲覧することができる。
 首相は冒頭から、外国で「突然紛争が起こることも考えられます」とし、そこから逃げようとする日本人を米国の艦船が輸送中に、その米国の船が他国から攻撃されても今の自衛隊はこの米国の船を守ることができないと語り始める。
 さらにPKOの現場で働いているボランティアや自衛隊員が武力攻撃を受けても、日本の自衛隊は「彼らを見捨てるしかない」と語る。まさに初っ端から〝俺たちは仲間を見捨ててもいいのか?〟と、国民に訴えかけたのだ。
 しかし、この記者会見は繰り返して読めば読むほど、まるで安い芝居だ。
 一国の首相が、戦後一貫してきた憲法解釈や国の安全保障にかかわる重大事の変更に言及しようとするのに、「論理」ではなく「情緒」から入る。しかも、それはことの本質から目を逸らさせるための「情緒」でしかない。
 阪田氏が明快に述べているように、集団的自衛権の行使容認というのは、日本が憲法9条を捨てて他国同士の戦争に参加できるようにするという選択である。自衛隊が自衛のための戦力から文字どおりの軍隊となり、自衛隊の若者たちが、他国の人間を殺し、殺されるようになる、という選択なのだ。
 集団的自衛権行使というのは、その選択であるにもかかわらず、否、だからこそ、首相とその周辺は「俺たちは仲間を見捨てるような国でいいのか?」というスタンスで、国民の目くらましに出てきたのだろう。
 しかも、公明党の山口代表が指摘し続けているように、懇談会の報告書が挙げた集団的自衛権が行使できる条件「日本の安全に重大な影響を及ぼす場合」というのは、きわめて抽象的でどうとでも解釈のできる話になる。

 5月15日の首相会見では、質疑応答のトップを切って東京新聞の記者が「歴代政権が踏襲してきた憲法解釈を一政権の判断で変更するとしたら、憲法が政府の政策を制限する立憲主義の否定ではないか」と問いただした。
 阪田氏も解説しているように、近代民主主義国家では憲法は法律の上位に来る。これが立憲主義である。「多数決も誤ることがある」という前提で、内閣や国会の多数決だけで国の根本的な枠組みが簡単には変えられないようになっているのだ。
 国民投票による改憲という本来の手続きを避け、内閣の一存で憲法解釈を変更して実質的に憲法の縛りを抜けようとする安倍首相の考え方は、まさに東京新聞記者が指摘したとおり〝立憲主義の否定〟そのものである。
 ところが、安倍首相は質問された立憲主義の肯否には答えず、「船に乗っている子供やお母さんを助けなくていいのか」という話に逸らせた。

 今、私が説明をしたように、この事態でも私たちはこの船に乗っている、もしかしたら子供たちを、お母さんや多くの日本人を助けることはできないのです。守ることもできない。その能力があるのに、それで本当にいいのかということを私は問うているわけであります。
 立憲主義にのっとって政治を行っていく、当然のことであります。その上において、私たち政治家は、こうしたことができないという現状から目を背けていていいのかということを皆さんにも考えていただきたいと私は思います。
 人々の幸せを願って、まさに生存していく権利があるわけなのです。そして、その権利を私たち政府は守っていく責任があるのです。その責任を放棄しろと憲法が要請しているとは、私には考えられません。
 会見を御覧になっている皆さんや、皆さんのお子さんやお孫さんが、こうした立場になるかもしれないという、そのことを考えていただきたいと思います。(5月15日 安倍総理の発言より)

 内閣の判断だけで憲法解釈を変えることが立憲主義の否定にならないかと重要な問いを突き付けられているのに、首相はそこは答えず、「国民の生命を守らなくていいのか」「仲間を見捨てるのか」「政府には国民の生命を守る責任がある」「その責任を放棄しろと憲法が要請しているとは考えられない」と、まったく別の話に飛躍させているのだ。
 巧妙な準備なのか、その場の彼の思考を正直に語ったのか、いずれにしても、さっぱり論理がつながらないまま、情緒にもっていく。「皆さんのお子さんやお孫さん」が、他国の兵士に殺されたり、他国の兵士を殺したりする可能性を開くことには、口をつぐんだままだ。
 まさに、首相自らが先導し、論理ではなく気合いとアゲアゲで進むヤンキー的手法で、憲法9条の否定どころか、立憲主義の否定さえやってしまおうとしているのが、現今の日本国の状況である。
 しかも、じつのところ国民の多くが何が起きているのかをよく理解できておらず、「集団的自衛権? 今ひとつよくわからないけど、でも北朝鮮や中国が怖いからねえ」という、これまた論理ではなく情緒で、ことの推移を眺めている。

 斉藤氏は前掲書で、ヤンキー美学の具体的特徴を、「気合いとアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」だとし、

<そこではほぼ「結果」は問われず、ただ現実に向き合う勢いのみが、ヤンキー的リアリズムの核となる>

と述べている。
 背筋が凍るのは、筆者だけではあるまい。真に厄介なのは、ヤンキー宰相の悩乱ではなく、彼の悩乱にそこはかとなく親和しながら眺めている日本国民の、どうしようもないヤンキー的なノリではないのか。

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あおやま・しげと●東京都在住。雑誌や新聞紙への寄稿を中心に、ライターとして活動中。著書に『宗教は誰のものか』(鳳書院)など。