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立憲主義の立場から集団的自衛権行使は絶対に認められない

伊藤塾塾長/弁護士
伊藤 真

 「日本ブランド」平和憲法を守るために。

「解釈改憲」は憲法違反である

 今、憲法の解釈を変更することでの集団的自衛権行使の容認が問題となっています。その問題が語られるとき、「解釈改憲」という用語が使われます。そのような概念はそもそもありません。憲法を変えるのは憲法96条の手続きに則って行うべきです。憲法を変えるには、これしかあり得ないのです。
 メディアの報道につられて、憲法改正には2種類があり、明文改憲(正規の手続きによる改正)と解釈改憲があると誤解されている方がいます。憲法を変える手続きは、憲法に定められている以外はあり得ません。「解釈改憲」は明確な憲法違反です。
 ただ、憲法に許されている範囲内での解釈の変更は、これまでもなされてきました。つまり、解釈の変更ではなく、実態が大きく変わったことを踏まえての「あてはめ」の変更です。しかし、許されないことまで解釈を変えて認めることは、なされていませんし、あってはならないことです。解釈の変更で憲法の許容範囲を超えたことまで認めることは絶対に許されません。政府もこれまでそう言ってきたのです。

解釈改憲の暴挙を知るために立憲主義を学ぶ

 そこで、解釈の変更による憲法改正が認められていないことをしっかりと理解するために、憲法・立憲主義について確認することが大切になります。
 私も法律を学ぶ前は、憲法は法律の親分で、民法・刑法などの諸法律のなかで最も大切な法律だと思っていました。しかし、それは大間違いでした。
 正しくは、憲法は、法律とは異質の「法」なのです。「法」とはルールとか規範と呼ばれ、私たちが守るべきものです。「法」は「憲法」と「法律その他」に大別されます。法律は、個人の自由を国が制限して社会秩序を守ります。憲法は、国家権力に対して縛りをかけるための道具・装置です。憲法を用いて国家を縛り、権力の乱用を防止するところに本質があります。
 その憲法の発想は古くはギリシャ、ローマの時代からありました。中世に至り、国王の暴走に歯止めをかけることを目的に、立憲主義という考え方が生まれました。
 市民革命を経て、近代国家が成立し、近代民主主義における立憲主義が現代に引き継がれてきました。中世の立憲主義との違いは、個人に着目し個人の人権を守るために、国家権力に縛りをかけることが第1の目的である点です。
 そこには、個人はかけがえのない存在であり、誰もが等しく大切な価値を有していると同時に、それぞれが違い、人は違うからこそ素晴らしいという考え方が基本にあります。ここに近代の立憲主義の第1のポイントがあります。
 また、近代憲法の立憲主義は、それ以前が国王の暴走に歯止めをかけるものでしたが、民主主義に基づく民意を反映した政府であったとしても憲法で縛りをかけるという点が第2のポイントです。民主主義の時代における立憲主義は、主権者の声を吸い上げて成立した政治であったとしても、縛りをかけるものなのです。
 もちろん、民主主義に基づく政治は大切です。ただ、同時に、民主主義も完璧ではありませんし、人間とは不完全な生き物です。それゆえに、民主主義の名のもとでの権力の暴走にも、憲法は一定の歯止めをかけることを意図している点が非常に重要なのです。これが立憲民主主義です。
 比喩的に車にたとえれば、民主主義は車のアクセルであり民意を反映して政治を進めます。立憲主義は冷静に立ち止まって考えるブレーキの役割を果たします。この両方があって、はじめて車は安全に運行が可能となります。
 これまで国民は、あまり立憲主義を意識してはこなかったのですが、それは、ブレーキ役を果たしてくれる政治家が、それなりに存在していたからです。自民党の中にもリベラル派といわれる戦争体験のある政治家が、平和は大切である、日本国憲法9条を守るのだ、という保守本流の流れがありました。野党もそれなりの力を有し、ブレーキ役を果たしていました。
 今は、政治家にブレーキ役を果たすことは期待できない状態ではないでしょうか。だからこそ、市民が立憲主義を学び、市民の力で歯止めをかけていく必要があります。
 民主主義に基づく判断においても過ちがある、人間は不完全な生き物であるという自覚があるがゆえに、あらかじめ頭が冷静なときに、どんなに国民多数の意思であったとしても、やってはいけないこと、奪ってはいけない価値があるとし、それを書き留めておいたものが憲法なのです。

世界に誇れる平和憲法という「日本ブランド」

 世界の憲法と比べ、日本国憲法には大きな特長があります。それは、個人の人権を守るために憲法で国に縛りをかけることに加え、平和の実現のために国に縛りをかけている点です。
 世界の憲法において平和条項や侵略戦争放棄を定めている国は150ヵ国ほどもあります。ところが日本は憲法9条2項において、正規の軍隊を持たず、交戦権も否認しています。言い換えれば「自衛戦争さえしない」と宣言しています。紛争が起こっても軍事力で解決することはしないと、徹底した平和主義を立憲主義の目的に追加しているのです。この平和実現のために国を縛るところまで踏み込んでいる点が重要です。
 戦後の日本は、正規の軍隊を持たず海外で武力行使をしないことを維持しながら、日本の国のかたち、国柄が形成されてきたのです。私はこれを「日本ブランド」と呼んでいます。平和国家というブランドは、何にも勝るものです。貴重な価値です。
 日本国憲法成立後、政治家もアメリカとのやりとりのなかで平和国家を維持してきました。最低限守らなければいけない、ぎりぎりのところを憲法9条2項のもとで、国を運営してきました。この先人たちの努力のたまものとして日本は、平和国家として世界に認知され、信頼される国としてブランドが構築されたのです。それがゆえに、外国において何か対立が生じたような場合にも、中立的な立場で仲介や戦後の復興支援活動をしたり、さまざまなNPO・NGO活動を世界各地ですることができています。平和国家日本のブランドがあるからこそできることです。
 諸外国からみたら、「日本はアメリカやイギリスとは違う。あれだけの経済大国なのに正規の軍隊を持たず、海外で武力行使をしない」という信頼が根づいているのです。そうしたブランド価値を築き上げてきたのが日本です。

集団的自衛権を認めてしまうと大変なことに

 集団的自衛権行使容認は、本来、憲法によって縛りをかけられる政府の側が、閣議決定という手法で、縛りをなくすことを意味します。しかも、国民の意思を問うこともなくです。集団的自衛権行使を容認するというのは、憲法の存在そのものを否定することです。
 また、国内的にも問題があるのみならず、国際的にも、これまで集団的自衛権は、憲法上行使できないから、海外派兵はしないとしてきたことが誤りだったと宣言することになり、新たな問題が生じます。
 これまでは、憲法9条2項があり、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争にも日本は参加しませんでした。また、そのことが、国際的にも認められていました。それなのに、これまで戦争に加わらず、間違いを犯していました、と諸外国に謝罪することは、国家としての体をなさなくなります。
 すなわち、解釈の変更によって集団的自衛権行使を認めることは、憲法を無視することであり、国際社会において恥ずかしく愚かなことなのです。
 もし、日本がベトナム戦争に参加していたらどうなっていたでしょう。韓国軍はベトナム戦争でおおむね5000人の兵士が戦死しています。また加害者にもなっています。日本が参加していれば、それ以上の日本人が命を落としていたかもしれませんし、加害者にもなっていたでしょう。
「戦争ができない国」から「戦争ができる国」に変えようというのが集団的自衛権行使の容認です。「戦争ができる国になったとしても、条件を厳しく設定してむやみに戦争はしない」と言う人もいます。でも「できない」と「しない」は大きく異なります。憲法は、海外で武力行使することは一切禁じています。「戦争はできない」のです。限定的でも集団的自衛権の行使を容認したのなら、「戦争ができる国」になってしまいますが、そのことは決して忘れてはいけません。
 国連憲章で集団的自衛権を認めているからといって、それを日本国憲法でも認めたとするなら、それは国連憲章と同じことになり、憲法9条2項の存在意義がなくなってしまいます。憲法9条2項の戦力不保持と交戦権否認は、国連憲章を超える厳しい平和主義の宣言なのです。
 ただ、これまで、日本国民の生命・財産を守るという国家の責務を果たすための必要最小限の実力行使を、例外的に許すものとしての自衛権を有すると政府は解釈してきました。しかし、それは自衛戦争ではありません。あくまでも日本国民の生命・財産が侵害されたときに、他にとるべき手段・方法がない場合に必要最小限度の実力行使しか許されない、とするのが憲法の趣旨です。
 私たちは、集団的自衛権を行使するとなったとき、外国の戦争に巻き込まれるとともに、相手の国から日本が攻撃の対象となることをイメージしなければなりません。現代では、テロ行為の標的に日本もなることを意味しています。
 また、同盟国から軍事行為への協力を要請されたとしても、断ることができるという考えもあります。しかし、アメリカとの信頼関係を維持するために集団的自衛権行使を認めようと主張しているのですから、そのアメリカから要請され、それを断ることは、最も信頼関係を破壊することになります。これまでは憲法9条2項があり、「戦争に参加できない」という拒絶の正当な理由がありました。
 つまり、日本の国益を考えて同盟国からの戦争参加要請を断るというようなことは、事実上できず、日本が望まぬ戦争に巻き込まれざるを得ないことにつながります。

集団的自衛権の概念は自己矛盾をはらむ

 そもそも自衛権は、個別的自衛権を念頭に国際法上も議論されてきたものです。集団的自衛権は国連憲章51条で初めて生まれた概念で、アメリカの都合で国連憲章に押し込まれた国際政治の妥協的産物です。
 自衛権とは、本来、個別的自衛権のみであって、集団的自衛権は、もともと自衛権の範囲に含まれるものではないのです。つまり集団的自衛権の本質は「他国防衛」にほかなりません。自国を守る「自衛」ではないのです。ですから、集団的自衛権という言葉そのものが自己矛盾しているのです。
 自衛と言いながら、他国のために戦争をすることが集団的自衛権です。集団的自衛権の背景には、中南米の小国が自分たちだけでは守りきれないので他国に守ってほしいという事情がありました。ところが、実際に集団的自衛権を行使したのは、ソ連、アメリカ、イギリス、フランスの4大国が中心です。大国の利益のために反体制派をつぶす軍事介入でした。
 集団的自衛権が、もともとの自衛権に含まれるかの議論そのものが、まやかしです。大国の論理を正当化するだけのものです。

公明党と市民に大きな期待を

 この誤った動きを止められるのは公明党しかないと思っています。
 与党のなかでの公明党の存在意義は大きく、譲れない一線を守ってもらいたいと願っています。公明党の原動力は、市民のみなさん、創価学会の方々の平和への思い、今までも日本国憲法を大切にしてきたことです。政治家のみなさんの力は、その背後にいる市民の思いです。
 たとえ限定的なものでも集団的自衛権を認めてしまっては、この国のかたちが変わってしまいます。「平和憲法を掲げる日本」と胸を張れなくなります。今回だけは、公明党が平和を守る党として、この暴挙をくい止めていただきたいと思います。
 そして、市民は声をあげるべきです。マスコミへの投書もいいでしょう。政治家に手紙を書いたりメールを送るのも有効です。市民の力は偉大です。
 ぜひ、1人ひとりが、平和国家日本を大切にしていくことを強く願います。

<月刊誌『第三文明』2014年6月号より転載>


いとう・まこと●1958年生まれ。東京大学在学中に司法試験に合格。95年に「伊藤真の司法試験塾」(その後「伊藤塾」に改称)を開設。親身な講義と高い合格率で「カリスマ塾長」として人気を博す一方、「憲法の伝道師」として各種集会での講演活動を精力的にこなす。また、弁護士として、「1人1票」の実現のために奮闘中。主な著書に『憲法の力』(集英社新書)、『伊藤真の憲法入門』(日本評論社)、『憲法問題』(PHP新書)、『現代語訳 日本国憲法』(ちくま新書)など多数。 伊藤真オフィシャルサイト