人間関係で悩むすべての人に 「分人」の考え方を教えたい

小説家
平野啓一郎

自分が分からない不安がある

 現今の若者は、自分がどういう存在か分からない不安を抱えている人が多いようです。人との関わりの中で、相手によって異なった自分を演じているような気がして、相手の個性に翻弄され自分が失われてしまうのではないかという不安です。その不安の裏返しとして、自分を過剰に強く持とうとし、自らを必要以上に前面に押し出すような生き方が望ましいと誤解している風潮が強いように思います。
 これは、とくに政治家に顕著で、外交において諸外国に強く対峙することを売り物にする政治家が増えています。しかし、普通の対人関係で考えれば、たとえ発言内容は正しくても、いたずらに強硬な言辞に対しては反発を抱いて当然です。相手とどうコミュニケーションを構築していけば話し合いができるのか、互いに影響を受けながら話し合っていく中でしか意味のある交渉はできないはずです。
 自分に対する不安の裏返しとして、強く相手に対応すべきだという幻想が蔓延していることは大きな問題だと感じています。とくに政治の世界で、強硬な極右的な発言がもてはやされる傾向があることに強い懸念を抱いています。

「分人」という考え方を提唱したい

 多くの人が生活していく中で、場面に応じていろいろな顔があることは、実感として感じていることだろうと思います。家族といるときと、友達といるときは必ずしも同じではないはずです。
 ところが、これまでは人間は分割不可能な一人の人間であって、いろいろな顔を持つことは多重人格であるかのように思われてきました。八方美人とか、軽薄な人間と位置づけられていました。
 現実には、いろいろな顔を有していなければコミュニケーションできないのが人間です。しかし、社会が否定的な価値観のもと、本当の自分を持っていなければいけない、表面的な顔でコミュニケーションをとっても仕方がない、とされてきました。そうした強迫観念にも似た「本当の自分」という存在がコミュニケーションをうまく成立させることのできない原因になってしまっています。
 もともと「個人」という語は英語のindividualの翻訳で「もうこれ以上分けられない」という意味です。キリスト教の一神教としての伝統から、神の前の自分と社会での自身が異なることは許されないという背景のもとに、分割不可能な存在として人間を「個人」と規定したものでした。
 国家と一個人、会社組織と一人というような大きな存在との関係では、この「個人」という考え方は納得できる側面もあります。しかし、分割できない「個人」という考え方は、実際の対人関係におけるコミュニケーションがうまく実現できない結果を生みますし、自分自身の内面においても混乱をきたしてしまいがちです。
 そこで、人間というのはもともと分割可能な存在で対人関係ごとに異なった自分があり、どんな人と関係するかの構成比率が変化していく「分人」という考え方をすべきだと思うのです。

生き方が楽になる「分人」の考え

 不確定要因が多くなっている現代においては、人間関係で一点集中的に自分という存在を打ち出してしまうことは困難な状態になりがちです。いくつかの自分を抱えているという状況、つまり「分人」としての複数の自分を肯定しなければやっていけないはずです。
 学校でいじめられている子がいて不登校になったとします。「学校に行かなければいい」と決めつけても解決にはなりません。自分という存在がたった一つしかないと考えたとすると、学校に行くなと言われても、その後どうしたらいいかイメージできません。そうではなく、学校の中の自分と地域にいる自分、仲間といる自分、というように分けて考えることで学校にいる自分はなくとも、ほかの場所での自分が存在するのだと考え方が整理できると思うのです。
 ちょっとしたことですが、「分人」の観点で整理して考えるだけで生き方がずいぶん楽になるのではないでしょうか。

空疎な「個性の重視」という言葉

 1980年代から中央教育審議会などにおいて「個性の重視」が唱えられるようになりました。しかし、教育にあたる側も「個性とは何か」は分かっていなかったはずです。
 ひとつには社会的要請が背後にあります。職業選択の自由は、同時に職業選択の義務でもあります。複雑な社会機構が機能するには、各人が自分に向いた職業をみつけていく義務があるともいえます。「個性を大切に」とは、こうした義務を伴うので若者はプレッシャーを感じます。社会の機能不全を恐れるがゆえに、「個性」なる言葉で社会的分業を強いる側面があるわけです。
 もうひとつは、本当に個性的であればあるほどコミュニケーションは困難になる点です。個性的な人間同士のコミュニケーション方法を教えることなく、一方的に「個性的になれ」と言いながら、実際には非個性的な人たちの間だけでしかコミュニケーションを図ることができていないのが実態です。
 このように「個性」をめぐってのコミュニケーションモデルが存在しないことで、僕自身も悩みましたし、多くの若者が今も、とまどっていることでもあります。

人間は他者との関係こそが大切

 2000年代に入り、米国同時多発テロが起き、価値観のまったく異なる他者とどのように接していくか、人間にとって周囲の人がいかに重要かが認識されるようになりました。
 人間にとって対人関係の影響は大変に大きいものです。人間は他者の存在がなければ自身を更新することができません。自分の頭では想像もできないようなことも、人と出会うことで啓発され、それに反応する中で今までの自分とは違った生き方ができたりします。
 一人の人間が生きていくためには、人との関係が大切であり、相手のことを理解しながら自身を「分人」化していくことによって、それまで自分にはなかった自分を生じさせることができます。人間が個性的に生きるためには他者の存在は欠かせません。
 そして、人との付き合いの中では善悪の観念ではなく、好きか嫌いかという部分が大きく作用してくるように思います。僕の近著『空白を満たしなさい』という小説では、「幸福」をテーマとして、この問題を扱いました。
 好きか嫌いかは、きわめて不合理な感情に発する部分です。人々の可処分時間が少なくなっていく中で、誰とコミュニケーションをとろうとするかは、好き嫌いの問題になっていきます。
 たとえ、ある一人から嫌われても「分人」化によってほかの人とコミュニケーションをとれるなら、その人は生きることができます。

自殺は「消えたい、消したい」という感覚

 今、日本では年間3万人余の自殺者が存在し、同時に30代の死因第一位が自殺です。現今の自殺問題で深刻なのは、定職に就き、家族関係も円満で、一応は社会が正常な状態と想定している環境のもとにある人が自殺しているという現実です。
 死を選んだ人が本当に死にたいと思っていたのかどうかは分かりません。僕は「死にたい」というより「消えたい、消したい」という感覚ではないかと思うのです。苦しくつらいとき、このまま自分が消えてしまったらどんなに楽になるだろうと思うのではないでしょうか。嫌な自分を消したいという感情が自殺に大いに関与していると思います。
「個人」という考えのもとでは、消えたいとなったとき、自分全体の問題に直結します。そのときに、嫌な自分もあるけれども、ほかの人 と出会って別の自分がいるという「分人」の考え方ができれば、自殺に至らずに自身を整理して捉えられるはずです。

知的な言葉には力がある

 最近、危惧を抱いているのは東日本大震災後、安易に絆が強調されている点です。家族や小さなコミュニティー内での触れあいが誇大に捉えられていることに違和感を覚えます。人間は、より社会的な存在であり、家族・小さな地域社会があれば幸福なんだというプレッシャーは人を苦しめるだけだと思うのです。
 また、人間には言葉が大切です。体験が大事だといっても言葉がないと体験を深めることもできません。貧弱な言葉しかないと体験そのものも意味を持てないものとなります。ことに知的な言葉は、感情的な問題を解決するための知性を形づくるものです。膨大な情報が溢れるネット社会だからこそ、知性によって情報をゆっくりと吟味していくことが大事だろうと思います。
 そして、自分として生きやすい生き方を肯定していいはずです。自分にストレスのない生き方を選ぶことに後ろめたさを感じる必要はありません。若者は生きやすい自身の「分人」を生きていいと思います。

<月刊誌『第三文明』2013年2月号より転載>

『空白を満たしなさい』
平野啓一郎著
講談社
定価1600円+税


ひらの・けいいちろう●1975年、愛知県生まれ。京都大学法学部卒業。99年、在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』(新潮社)で第120回芥川賞を受賞。以降、2002年発表の大長編小説『葬送』(新潮社)をはじめ、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。著書に『滴り落ちる時計たちの波紋』(文春文庫)、『決壊』(新潮社)、『ドーン』(講談社)、『かたちだけの愛』(中央公論新社)など多数。近著に『空白を満たしなさい』(講談社)がある。

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