「周―池田」会見45周年(中)――日中国交正常化への貢献

ライター
青山樹人

真に尽力しているのは誰か

 入院中であった周恩来総理が医師団の反対を押しきってまで、池田大作・創価学会会長と会見したのはなぜか。
 中国を代表する歴史学者であり「史学大師」とまで称された章開沅・華中師範大学元学長は、

 中日友好を何よりも重視した周総理は、中日友好のために真に尽力している人は誰なのかを知っておられたのでしょう。だからこそ、重い病の身を押して、池田先生とお会いになられたのだと思います。(『人間勝利の春秋』第三文明社)

と述べている。
 1949年10月に中華人民共和国が建国された。だが、日中戦争で筆舌に尽くしがたい暴虐をはたらいた日本との関係は絶たれたままであった。 続きを読む

「周―池田」会見45周年(上)――文献的に確定した会見の意義

ライター
青山樹人

「一期一会」の会見

 1974年12月5日の午後10時近く。
 中国の周恩来総理は、池田大作・創価学会第3代会長と北京市内で「一期一会」となる会見をした。会見は、周総理の強い意向によるものだった。
 じつはこのとき周総理は中南海にある要人専用の三〇五病院に入院中で、医師団の厳重な管理下にあった。
 同日の午前中に池田会長と人民大会堂で会見した鄧小平副総理(当時)も、総理の病状が思いのほか深刻で入院中であることを会長に明かし、〝総理自身が池田会長に会いたいという思いを持っているようだが、今は誰とも会わないように皆が止めている状態だ〟と伝えていた。 続きを読む

宿命を使命に変えるということ――書評『ブラボーわが人生』

ライター
本房 歩

現証がちゃんとある

 登場するのは、80代、90代。なかには100歳を超えた方もいる。
『聖教新聞』で大好評を呼んでいる連載企画「ブラボーわが人生」から18編が、要望に応えて書籍化された。
 ページをめくりながら、まず目に飛び込んでくるのは、おひとりおひとりの大きな写真。
 どの顔も美しく、喜びと慈しみに溢れ、そして力強い。人生の最終章を、こんな表情で生きられるとしたら、人生とはなんと素晴らしいものなのだろうと実感する。
 いずれも、戦争をくぐり抜け、戦後の貧しい時代を生き抜いてきた「庶民」である。
 かつて草創期の創価学会を、世間の心ない人は「貧乏人と病人の団体」と嘲笑した。それに対し、第2代会長の戸田城聖氏は

貧乏人と病人を救うのが本当の宗教だ

と誇り高く応じた。 続きを読む

「創価の父」牧口常三郎(下)――世界に広がる実践と評価

ライター
青山樹人

創価一貫教育の夢を託す

 池田会長はローマクラブのホフライトネル名誉会長との対談のなかで、

 私たちの創価教育は、「社会のための教育」という視点を打ち破り、「教育のための社会」への転換を目指したのです。
 この教育観の原点は、牧口初代会長の思想にあります。牧口会長は、軍国主義教育が吹き荒れる最中にあって、「教育は子どもを幸福にするためにある」と敢然と叫んだのです。
 目の前の子どもの幸福を第一義とする――それが創価教育の眼目です。(『見つめ合う西と東』第三文明社)

と語っている。
 牧口の創価教育学説は、なによりも机上の論理ではなかった。現役の小学校長として子どもたちと触れ合い、そこで自身が実践して成果を上げてきた指導法を次世代に託したいという熱意のなかから生まれた。 続きを読む

「創価の父」牧口常三郎(上)――信念の獄死から75年

ライター
青山樹人

北海道初の地理科免許

 創価学会の初代会長であり、今や世界に広がる創価教育学の〝父〟である牧口常三郎。牧口が国家神道の強制を拒絶して投獄され、戦時下の東京拘置所の病監にその生涯を終えたのは1944年11月18日。
 本年(2019年)で満75年となる。
 牧口常三郎は1871年(明治4年)6月6日、眼前に佐渡を望む現在の新潟県柏崎市荒浜(当時は柏崎県刈羽郡荒浜村)に生まれた。幼名を渡辺長七といい、5歳の時に父の縁戚にあたる牧口善太夫の養子となった。
 ちなみに、奇しくもこの年は日蓮が佐渡に流罪(文永8年/1271年)されて600年にあたっている。 続きを読む