「創価の父」牧口常三郎(上)――信念の獄死から75年

ライター
青山樹人

北海道初の地理科免許

 創価学会の初代会長であり、今や世界に広がる創価教育学の〝父〟である牧口常三郎。牧口が国家神道の強制を拒絶して投獄され、戦時下の東京拘置所の病監にその生涯を終えたのは1944年11月18日。
 本年(2019年)で満75年となる。
 牧口常三郎は1871年(明治4年)6月6日、眼前に佐渡を望む現在の新潟県柏崎市荒浜(当時は柏崎県刈羽郡荒浜村)に生まれた。幼名を渡辺長七といい、5歳の時に父の縁戚にあたる牧口善太夫の養子となった。
 ちなみに、奇しくもこの年は日蓮が佐渡に流罪(文永8年/1271年)されて600年にあたっている。
 不漁などで家業が傾いたことにより、13歳となる1884年ごろまでに「養父母の善太夫・トリと共に、もしくは相前後して、小樽へ移住していたのではなかろうか」(『評伝 牧口常三郎』第三文明社)と推察されている。
 牧口は小樽警察署の給仕として働きながら、親類の支援を受け北海道尋常師範学校に学んだ。
 1893年(明治26年)3月、同校を卒業して附属小学校の教員に採用される。牧口が長七から常三郎に名を改めたのは、この年の1月のことだ。
 3年後、文部省中等学校教員検定試験に合格。地理地誌科の免許を得た。地理科の免許を得たのは北海道で牧口がはじめてである。
 28歳の頃には北海道師範学校附属小学校の主事事務取扱(実質的な校長職)に任命されている。

百年前に「世界市民」を示す

 1901年に上京した牧口は、苦心の末、その2年後の10月に『人生地理学』を出版する。時に32歳であった。
 この著作の中で牧口は、一人ひとりの人間が「一郷民」「一国民」「一世界民」それぞれの自覚に立つべきことを促している。
 あくまでも一人の生活者として、まず郷土に目を凝らし、そこから国内や海外の出来事に視野と想像力を広げていく。他国民をも自分と有縁の存在だと認識していくことで、自分自身がこの地球上で共に生きる「一世界民」だと自覚できる。
 日露戦争の開戦直前、日本にも世界にも帝国主義の嵐が吹き荒れていた渦中、牧口はローカルとグローバルの両方の視点に立った「世界市民」の概念を早くも提唱していたのである。
 また、その一人ひとりの「民」が安心して暮らせる社会をつくるために、各国は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移行していくべきであり、日本がその模範となるよう説いている。
 この『人生地理学』出版の翌年の1904年、牧口は嘉納治五郎が創立した弘文学院の地理教師になっている。
 日清戦争のあと、中国(当時は清)から日本への留学生が急増し、弘文学院もそうした中国人留学生に日本語教育と普通教育を授ける教育機関として創立されていた。
 牧口の講義は、受講した留学生の手によって中国語で編集され、06年には『江蘇師範講義 第七編 地理』として江蘇省で発行されている。
 さらに07年には上海で同じく中国語版の『最新人生地理学』として出版されている。

中国の近代化への影響

 甲南大学の胡金定教授は、当時、日本から中国に送られた翻訳書の数々が、出版技術の発展と思想の浸透の2つの点で、中国の近代教育事業に大きな貢献を果たしたと指摘している。

 牧口常三郎創価学会初代会長の論著『人生地理学』も中国語に漢訳され、中国で教科書として読まれていきました。(『第三文明』12月号

 そして胡教授は、『人生地理学』が中国に与えた影響として、

①中国の郷土地理教育において世界の地理を理解することを重視するようになった
②『人生地理学』が示す国家と個人の関係が、中国社会への民主思想学説の伝播に大きな役割を果たした

と述べている。

 牧口会長の『人生地理学』は、過去の翻訳だけにとどまることなく、現在もなお翻訳され続けています。二〇一五年には、中国の教育分野で最大の出版社である人民教育出版社から、国家重点図書出版プロジェクト「漢訳・世界教育経典シリーズ」の一つとして、『牧口常三郎教育論著選』とのタイトルで出版されています。(同)

 牧口が弘文学院の教壇に立って70年後の1974年5月、池田大作・創価学会第3代会長が初訪中し、さらに12月の第二次訪中で周恩来首相と会見している。

『創価教育学体系』刊行

 この『人生地理学』によって牧口は高い評価を受け、これを読んだ新渡戸稲造や柳田国男らと交友を結んでいる。
 牧口はまた女性教育の先駆者でもあった。
 1905年、牧口が主幹となって、女性のための通信教育をおこなう大日本高等女学会が設立されている。
 高等女学校が設置されていない地方に住む者や、経済的事情などで高等教育を受けられない女性のための通信教育で、翌年には全国で会員数2万人を超えた。
 牧口は嘱託として文部省に勤めたあと、1913年(大正2年)に東盛尋常小学校の校長に就任。16年には大正尋常小学校の初代校長も兼務した。
 画期的な公開授業をするなど先駆的な教育方針が注目された一方で、政治権力の威に媚びない姿勢が疎んじられ、1919年の年末には西町尋常小学校に異動させられる。
 牧口が戸田甚一(戸田城聖・創価学会第2代会長)青年と出会うのは、この人生の苦境にあった1920年初頭のことである。
 日本の教育界がますます〝国家のための教育〟へと傾斜していくなかで、牧口は長年の自身の思索と実践の成果を学説としてまとめ、発表したいと考えるようになった。
 戸田の全面的な協力支援のもとで『創価教育学体系』第1巻が出版されたのは、1930年(昭和5年)11月18日のことだった。
 そしてこの本の奥付に初めて創価教育学会の名称が記されたことで、この日が創価教育学会――のちの創価学会の創立の日となるのである。

関連記事:
「創価の父」牧口常三郎(下)――世界に広がる実践と評価

「青山樹人」関連記事:
アジアに広がる創価の哲学(上)――発展著しいインド創価学会
第43回「SGIの日」記念提言を読む――民衆の連帯への深い信頼
共感広がる池田・エスキベル共同声明
学会と宗門、25年の「勝敗」――〝破門〟が創価学会を世界宗教化させた
書評『新たな地球文明の詩(うた)を タゴールと世界市民を語る』
カストロが軍服を脱いだ日――米国との国交回復までの20年


あおやま・しげと●東京都在住。雑誌や新聞紙への寄稿を中心に、ライターとして活動中。著書に『最新版 宗教はだれのものか 世界広布新時代への飛翔』、『宗教は誰のものか』(ともに鳳書院)など。