『ルネ・ジラール』――異能の思想家が築いた独自の「人間学」

ライター
小林芳雄

模倣(ミメーシス)的欲望論

 ルネ・ジラールは学際的な視点から独自の人間学を唱えたことで知られる。その研究は文芸批評からはじまり、人類学、神話学、最後には宗教哲学にまでおよぶ。まさに現代が生んだ知の巨人の一人である。翻訳書は多数あるが、従来の学問の枠組みに収まらない研究であるためか、一般的にはあまり知られていない。本書は彼の学説と生涯を簡潔にまとめた一書である。

欲望とは、世界や自己への関係である以前に、他者への関係である。欲望される客体とは、たとえそれが「〔意識から独立して存在している等の〕客体的な」質を備えているとしても、まずは「模範」と目される〈他者〉によって所有ないし欲望されている客体なのである。(本書58ページ)

 はじめに、ジラールの思想でまず注目しなければならないのは「模倣的欲望論」である。初期の著作『欲望の現象学』で示されたこの理論を、彼は生涯にわたって深めていく。
 欲求と欲望はことなる。欲求は生理的なもので限界があるが欲望には限度がない。欲求が欲望に変わる際に決定的な役割を果たすのは他者である。モデルとなる人物を模倣することによって、はじめて欲望を抱くようになる。ジラールは近代の文学的遺産に向き合うことにより、模倣が欲望を生み出すということを発見する。
 現代人の多くが憧れているタレントやインフルエンサーが身につけている服を着たくなり、食べているものを味わいたくなるのも、模倣が欲望を生み出すからであろう。
 さらに欲望は模倣する人物への対抗意識や羨望から、限度なき闘争へと到る。ジラールはこれを「模倣的抗争」と名付ける。
 こうした熾烈な争いを終わらせるには、宗教的回心にも似た自己変革によって、自身の欲望の虚構性に気づく以外にはない。
 セルバンテスやスタンダール、ドストエフスキーなどの傑作といわれる作品は、文学という手法により人間の心に鋭くメスを入れ、ふだん隠されている「模倣から欲望は生まれる」という人間の真実を明らかにした。その点で優れた芸術であると同時に、近代が生んだ一つの知の到達点であると位置づけている。

供儀とは何か?

諸々の差異を溶解させることによって、模倣(ミメーシス)は事の渦中にいる者たちを互いの「分身」に、仲間内で相争う殺人者に変える。この暴力が絶頂に達した時、「万人の万人に対する〔闘争〕」は、スケープゴートのメカニズムによる「万人の一者に対する〔暴力〕」へと変貌する。このメカニズムが、奇跡的に危機を解消することになるのである。(本書27ページ~28ページ)

 次に、ジラールは神話に登場する供儀の問題に取り組む。
 共同体の創設に関する多くの起源神話には供儀(生贄を捧げる儀式)が登場する。そこに共通するのは、共同体の危機が起きたとき、特定の人物の殺害か追放によって解決されることだ。
 彼は古代社会で供儀が担っていた役割を独自の観点から考える。
 供儀神話にはおおまかに3つの共通項がある。(1)模倣的欲望は模倣的抗争を生み出し、それが原因で共同体を危うくする無秩序状態が起こる。(2)その状況を終息させるため、特定の人間が原因であるとされ、暴力の一局集中化が起り、スケープゴートが生まれる。(3)スケープゴートとされた人間は、共同体全員の総意で殺害されるか追放され、その行為は神聖なものと位置付けられる。
 こうした分析から、古代社会では、模倣的抗争から生まれる暴力を抑制するために身分制度などの社会的秩序は必要不可欠であった。スケープゴートとされた人たちは、社会から暴力を追放のために必要とされる。だから、追放されたり殺されたりした人間を聖なるものとする。しかし、完全に追放することができず、ふたたび模倣的抗争が高まると供儀が繰り返される。
 このような悪循環のメカニズムを犠牲者の立場から明らかにしたのが聖書であり、諸宗教に対してキリスト教は卓越した宗教であると考えるようになる。彼の学説の基盤には、自身の宗教的回心体験とキリスト教へ信仰がある。

暴力は暴力によって止むことは無い

 クラウゼヴィッツは以下の逆説を強調した。征服者は制覇することを欲し、平和を欲する。戦争を欲するのは、防衛する側である。ヒトラーはベルサイユ条約の屈辱に「応答する」ため一民族を総動員することになるのだろうし、ビン・ラディンは九・一一をアメリカ合衆国への「応答」とするつもりなのだろう。これは一つの人類学的法則、攻撃を仕掛ける者は、みずから防戦者をもって任じるという法則である。この相互性の法則は極限への上昇を、暴力の爆発を引き起こす。(本書166ページ)

 人生の最後にジラールが取り組んだのは、クラウゼヴィッツの『戦争論』である。彼が注目したのは「戦争は政治の延長である」という良く知られた側面でなく、「暴力の権限には限界がない」とする、あまり知られていないくらい側面だ。
 人間の欲望は科学技術を発達させ、生活は豊かになった。その反面、技術の発展は兵器の性能を加速度的に向上させ、敵国民のせん滅を可能にしただけでなく、人類全体を破滅させる核兵器を誕生させてしまった。
 こうした時代においては、戦争を政治の力で完全に制御できず、「暴力によって暴力を終わらせる」という考え方は成り立ちえない。核抑止論や勢力均衡論で戦争を遠ざけられず、人類の悪循環を断ち切ることは不可能である。彼は人生の最後の仕事で、人間の暴力が秘める破壊性を白日のもとに示すとともに、聖書が示した隣人愛の実践を強調して止まない。
 ジラールが生涯をかけて築いた人間学は、独学の人であったことも手伝い、賛否が分かれるところだ。特に中期以降に展開したキリスト教への信仰に基づく学説は、科学的手法と客観性に重きを置く一般の人文科学者には受け入れがたいだろう。
 しかし、近代のアトム的人間観とそれに基づく卑屈さと傲慢さを批判し、文学や宗教によってしか知ることのできない人間の真実があることを提示した彼の学説には、学ぶべきことが数多くある。さらに現代の諸問題を乗り越えるために、精神的変革の重要性を訴えた点は極めて重要だ。
「人間よ、驕るなかれ!」「人間よ、自らの生命に目を向けよ!」と呼びかけるジラールの人間学は、暴力が再び力を増しつつある時代に、より光を放っていくに違いない。

『ルネ・ジラール』
(クリスティーヌ・オルスィニ著/末永絵里子訳/白水社・文庫クセジュ/2023年4月5日刊)

関連記事:
「小林芳雄」記事一覧


こばやし・よしお●1975年生まれ、東京都出身。機関紙作成、ポータルサイト等での勤務を経て、現在はライター。趣味はスポーツ観戦。