連載エッセー「本の楽園」 第153回 物語の楽しみ方

作家
村上政彦

 僕は10代の後半にフランスのヌーボーロマンの信奉者だった。どっぷりのめりこんで、アバンギャルドな習作をいくつか書いた。モデルになる小説は、それまで僕が読んできたどの小説とも違っていた。
 まず、手法の新しさが何よりの価値となっていた。起伏のある物語や練られた人物造形などというのは、化石のようにあつかわれた。僕もそうだった。しかし、あるとき、自分の書いているアバンギャルドな小説がつまらないとおもった。
 ちょうどガルシア・マルケスの『百年の孤独』を読んだ時期で、僕はこの小説にヌーボーロマンよりも新しさを感じた。とりわけヌーボーロマンは物語をきらった。それがマルケスの小説には物語があふれている。僕は物語が好きだ。物語が書きたかったのだ。
 そのころ小説の死が真剣に語られていた。僕は、小説は死ぬかもしれないが、物語は死なない、と確信した。それでアバンギャルドな小説を書くことをやめて、物語のある小説を書き始めた。作家デビューをしたのは、それから2年後だった。
 それからの僕は、よく物語について考える。物語について書かれた本を読む。このコラムで取り上げるのは、そのなかの1冊だ。
『物語のカギ』は、冒頭から、いまの風潮である文学無用論に挑む。

 この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである。(中略)
 文学は、経済学、法律学、医学、工学などと同じように「実学」なのである。社会生活に実際に役立つものなのである。
(荒川洋治『文学は実学である』みすず書房 2020年)

 これは、僕もよく引き合いに出す言葉だ。実は、この荒川洋治の文章を読む前から、僕は小説の書き方を教えている大学で、文学は実学だ、といってきた。だから、この考えは、僕のものでもあった。しかし荒川洋治は、僕よりもずっと先にこのことをいっていた。
 著者は、こんなことも述べる。

物語を読むとは、他者の知覚で世界を眺められる数少ない機会なのです

 人は、自分から逃れられない。ところが、小説を読むことで、自分を離れて、他者の眼で世界を視ることができる。これは、小説(物語)のいちばんの効用だろう。
 こう書いてくると、この本は物語論か、とおもわれるかもしれない。違います。物語を楽しむためのガイドだ。そのための「カギ」が満載されている。たとえば、「虫の視線で読んでみる」の章。これはメタファや小道具など、ディテールに注目してみようという提案だ。
 このような読み方は宝探しのようなもので、読者の眼力によって、(すぐれた作品ほど)いくらでも物語を深く広く読むための「カギ」が見つかる。僕の好きな作家ウラジミール・ナボコフは、小説を読むことは、ディテールを愛でることだ、といっている。
 また、「鳥の視線で読んでみる」。この章でおもしろいのは、「自分の人生を通して読むこと」を勧めているところだ。

 物語を鑑賞したとき、主人公と自分の境遇や悩みとを照らし合わせて、救われたような経験はないでしょうか。(中略)そうしたとき、物語に対して、我々は自分の人生を投影して鑑賞しています。その結果、大きな慰めやヒントを得られるのです

 本書には、さまざまな文学理論が登場するが、この読み方は直球である。誰に教わらなくても、読者は自然にそうやって読んでいるはずだ。著者も初歩的な読み方であることは認めている。そのうえで、こう述べる。

自分の感情によってその作品を読めたってめちゃくちゃ嬉しくないですか? その作品にあなただけの意味を付与できたってことですよ。あなたも作品も、これ以上幸福なことはないのではないでしょうか

 確かに。小説家は、読者がそのような読み方をしてくれたら、すごくうれしい。自分の作品が誰かの生きる力になるのは、書き手の冥利に尽きる。
 それでは、別に本書を読まなくても物語を楽しめるのではないか? 身も蓋もないが、その通りである。しかし著者は、精緻な文学理論にそった読み方もたくさん紹介してくれる。それはまた、「自分の人生を通して読むこと」とは違った楽しみを与えてくれる。
 僕がおもしろかったのは、「能動的な読みの工夫」の章で、世界文学に触れたところだった。比較文学者のフランコ・モレッティーの「遠読」(原典ではなく、「翻訳や作品に関する論文を駆使する読み方」)や、ディビット・ダムロッシュの世界文学の定義について、詳しく述べられている。

一、世界文学とは、諸国民文学を楕円状に屈折させたものである。
二、世界文学とは、翻訳を通して豊かになる作品である。
三、世界文学とは、正典のテクスト一式ではなく、一つの読みのモード、すなわち、自分がいまいる場所と時間を超えた世界に、一定の距離をとりつつ対峙するという方法である。
(ディビット・ダムロッシュ『世界文学とは何か?』国書刊行会 2011年)

 もっと物語を楽しみたい人、文学を読み始めた人には、いいガイドが出た。

お勧めの本:
『物語のカギ 「読む」が10倍楽しくなる38のヒント』(渡辺祐真、スケザネ著/笠間書院)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。