連載エッセー「本の楽園」 第119回 100年読まれるライターの教科書

作家
村上政彦

 大学のクリエイティブ・ライティングのクラスで教えるようになって6年が過ぎた。そのあいだ、大手出版社の新人賞を受けた学生を2人輩出した。どちらも女子学生で、世の中は女性作家の活躍が話題になっているが、大学も例外ではない。
 僕は、この2人の女子学生に特別なことを教えたわけではない。もともと高い能力を持っていた。だから、少し助言をしただけで、自力で作品を書いて、受賞に結びついた。例年、このような原石は2~3人いる。僕は彼らを見い出し、励まし、作品が完成するのを見守るだけである。
 クリエイティブ・ライティングのクラスで教えるにあたって、いちばん難題だったのは教科書だった。僕は今年で作家デビュー33年になるが、それまで人に小説の書き方を教えた経験がなかった。
 自分も誰かに教わったわけではない。先行作家の作品を読んで、小説とはこういうものだと知って、彼らの書くように書き始めた。だから、小説をどのように書けばいいのか、言語化したことがなかった。恐らくどの作家もそうだとおもう。
 自転車に乗れるようになったり、泳げるようになったりするのも、実際、自転車に乗って転び、海に入ってあっぷあっぷし、そのうちすいすいペダルをこぐようになり、手足を動かして海中を進めるようになる。それと同じことだ。
 でも、人に教えるためには言語化しなければ伝わらない。かつての長嶋茂雄のように、「ボールをぐいっと引きつけて、バットをブンと振る。いいか? ブーンじゃないぞ、ブンだぞ」――。
 では僕のクラスの学生は、どう書けばいいのか見当もつかないだろう。
 試しに「小説作法」の類書を取り寄せて10数冊読んでみた。どれも書いてあることが違う。ある作家は、冒頭から作家とはどうあるべきかの精神論を語っている。また、ある作家は、自作を掲載して、それを読んで学べ、といっている。
 ほかの作家の書いた「小説作法」の本を読んで、気づいたのは、その作家の小説作法の解説書になっていることだ。これは考えてみれば、その作家の仕事のやり方をまとめているのだから、当然のことである。
 結局、参考になる「小説作法」の本は、ほとんどなかった。僕は自分の仕事のやり方を標準的だとはおもっていない。だから、自分のやり方をまとめるつもりはなかった。思案して、いまの小説の書き方のベースになっている小説を選び、主題の見つけ方、小説的な文章の書き方、物語の作り方、構成の仕方など、少しずつ言語化して、ほぼ1年がかりで、ようやく1冊の小説作法の本を書いた。『小説を書いてみよう。』(第三文明社)だ。
 この本のセールスポイントは、僕の小説作法の解説書になっていないことだ。モデルにしたのは、フローベールの『ボヴァリー夫人』と、トルストイの『アンナ・カレーニナ』。19世紀西洋で成立したリアリズム小説の書き方をまとめている。それを身につけ、自分なりにカスタマイズして、現代文学を書く、というのが、僕のめざしたところだ。
 あー、長い前置きだった。ごめんなさい。ここから本論に入る。実は、使える本を見つけた。『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』(ダイヤモンド社)である。帯に、「100年後にも残る『文章本の決定版』を作りました」というキャッチコピーと担当編者の名が載っている。自信満々とみえる。
 ほんまかいな、と半信半疑で手に取って、読み始めたら面白い。これは小説家向けの作法本ではない。ライターに向けた作法本なのだが、小説を書く者にとっても、かなり使えるとおもった。

 著者はライターを翻訳機だという。この場合の翻訳とは、ある言語をほかの言語に訳することよりも、もっと幅広い。

自分のあたまに渦巻く漠とした感情に、的確なことばを与えていくこと。自分の思いを、ことばにして誰かに伝えること。これだって立派な「翻訳」だろう。

感情の揺れ、震えを、ことばにする(翻訳する)ことを習慣化したほうがいい。それは自分という人間を知ることでもあり、ことばの有限性を知ることでもあり、翻訳機としての能力を高めていく格闘でもある。(中略)
 ぼくは、文章の書き方を学ぶことは、ひとえに「翻訳のしかた」を学ぶことだと思っている。文章とは、ゼロからつくるものではない。すでにある素材(思考や感情、あるいは外部の情報)を、ていねいに翻訳・翻案していったものが、文章なのだ。

 これは小説も同じだ。小説は言葉でできている。小説家は思考や感情やイメージを言葉に翻訳している。このあたりで、僕は、うんうんと頷いている。そして、次の一文でうーんと唸った。

文章に必要なのは――そして読者が求めているのは――説得力ではなく「納得感」なのだ。

 では、納得感をもたらすために必要なのは何か?

 課題の「共有」である。
 これから論じるテーマが、読者(あなた)にとっても無関係ではないと知ってもらうこと。むしろ、いまの自分にこそ切実な課題だと感じとってもらうこと。

読者が納得へと踏み出すには、なんらかの「自分ごと化』が必要

 著者は、これを「課題の鏡面性」ともいう。それは、こういうことだ。

読者がコンテンツのなかに「わたし」を見出した状態

コンテンツが「わたしを映し出す鏡」として作用している状態

自分ごと化、感情移入、登場人物を応援する気持ち、その先にある課題解決のカタルシス

 これも小説と同じ。ある小説の中に「わたし」を見出した読者は、最後までページを繰る手を止めないだろう。
 また、いい文章の条件。

苦労の跡がどこにも見当たらない文章

最初からそのかたちで存在していたとしか思えない文章

 そう、そう。
 激しく同意したのは、コンテンツの賞味期限についてだった。

 コンテンツの普遍性を考えるとき、見るべきは「未来」ではなく「過去」である。しかも去年や一昨年の過去ではなく、10年、50年、100年レベルでの過去だ。

古典とされる作品群を残した文豪たちは、先駆的だったわけでも進歩的だったわけでもなく、ただただ「普遍的」だったのだ。

普遍性を意識したコンテンツは、時間だけでなく、言語や国境の壁も越えていく可能性を――あくまでも可能性を――持ってくれるのだ。

 小説家は誰もが自作の寿命を気にする。できる限り長生きして欲しい。そして、この著者と同じことを考えているのだ。
 さて、僕にとっていちばん役に立ったのは、推敲の章だった。いま僕はある中篇小説を脱稿して、ゲラ直しの段階に入っている。推敲について語る著者の言葉が、いちいち身に染みた。これは確かに100年後も残る名作かもしれない。

お勧めの本:
『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』(古賀史健著/ダイヤモンド社)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。