連載エッセー「本の楽園」 第117回 マルジナリアでつかまえて

作家
村上政彦

 本の「余白」のことを英語で「マージン」という。「マルジナリア」はそこから派生した言葉で、本の余白に書き込まれたもののことだ。先日、作家の先輩の誕生会をZOOMでやった。
 参加したのは、小説家、文学研究者、エッセイスト、翻訳者たちで、本をきれいに読むか、汚して読むかが話題になった。汚して読むというのは、書き込みをしたり、傍線を引いたり、目印にページの端を折ってdog ear(ドッグ・イアー=ページ上部につける折り目)をつくったりすることだ。全員が汚して読む派だった。
 読書は作者との対話だ。マルジナリアは、作者の文章、そこに込められた思考などによって、読み手の心に浮かんだ思い=応答だ。書き込みをしない読み手は、応答はあっても、それを記録に留めない。それはもったいないと思う。

そのつどの読書は一度しか生じない。同じ川に二度と入れないのと同様である。マルジナリアとは、そうした出来事の観察記録でもあるのだ。

 書かれたテキストは動かない。しかし読み手の心は、常に動いている。同じテキストを読んでも、同じ感想を持つとは限らない。だから、その瞬間の思考をマルジナリアとして留める。
 夏目漱石も本を汚して読む人だったようで、彼の全集にはその記録が収められているという。本書にはモーパッサンの英語訳の小説の余白に彼の残したマルジナリアの写真が掲載されているが、

面白イ。然シ要スルニ愚作ナリ。モーパッサンは馬鹿ニ違ナイ。

という一文がある。痛烈である。ほかにも何か細々としるしているが、僕は漱石の心にこれだけの感興を呼び起こしたのだから「名作」ではないかとおもうが、どうだろうか。一度、原作を読んでみたくなった。
 漱石もかなりマルジナリアを残したが、もっとすごいのはフランスの思想家ミシェル・ド・モンテーニュ。彼は自作の『エセー』の余白に蟻の行列のようなマルジナリアをびっしりと書き込んでいる。
 これは何のためか? 手短にいえば、一度書いた文章に推敲をほどこしているのだ。『エセー』の初版が出版されたのは1580年。94章の2巻本。2年後、300か所ほど増訂した第2版を刊行する。
 1588年には第2版に大幅な増補改訂をほどこして、107章の3巻本を出版した。まだ、終わらない。モンテーニュは1592年に没するのだが、亡くなるまでこの本に書き込みを続けて、「ボルドー版」(「ボルドー本」とも)と呼ばれる本が残った。
 1995年、この「ボルドー版」のマルジナリアの反映された新版が刊行された。恐らく彼は生きている限り、『エセー』に書き込みをして、新版を作り続けたのではないか。
 また、『ロリータ』の作者ウラジミール・ナボコフもマルジナリアを残している。彼が書いたのは文字ではなく、絵だ。フランツ・カフカの『変身』に主人公がどのような虫になったのかを描いている。
 彼は、この虫を「大きな甲虫(a big beetle)」としている。蝶のコレクターとしても知られた作家らしいマルジナリアといえる。また、ナボコフは、『変身』の英訳にある「巨大な虫」という文章の、「巨大な」を取って、ただ、「虫」と修正している。
 せいぜい90センチほどの虫というのが彼の推測で、その根拠は作品中の主人公が上顎でドアの鍵を回す描写である。ここまで想像力を働かせて読むのだ、という読書のお手本のような読み方だ。

人類を大きく2つに分けてみることができる。本を読む者と読まない者に。読む者をさらに2つに分けられる。本に書き込みをする者と書き込みをしない者に

 マルジナリアによって、その本はカスタマイズされて世界に1冊だけの、あなたの本になる。もっとも著者も書いているけれど、古本屋が買い取るときには、汚れた本として値打ちが下がる。しかし、マルジナリアによって分厚くなった本は、いわば風格がある。
 それは書き手と読み手の対話の結果である。

お勧めの本:
『マルジナリアをつかまえて 書かずば読めぬの巻』(山本貴光著/本の雑誌社)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。