書評『「三国志」を読む』――正史から浮かび上がる英雄たちの実像

ライター
小林芳雄

正史『三国志』とは

 日本で『三国志』というと、明代(1368-1644年)に書かれた小説『三国志演義』(以後、小説『演義』)が圧倒的によく知られている。しかし民間伝承を豊富にとりこみ編集したこの作品は、中国の大衆の心情や文化を伝えるものではあるが、誇張や伝説が多く紛れ込んでおり、人物の歴史的実像を伝えているとはいいがたい。
 著者の井波律子氏(1944-2020年)は、正史『三国志』と『三国志演義』を翻訳したことで知られている。その他にも『水滸伝』や『世説新語』などの個人訳を成し遂げ、中国古典に関する多数の著書がある。
 本書は、「正史『三国志』を読む」というテーマで行われた4回の講座を加筆、編集したものである。さらに岩波現代文庫収録にあたり、2編の文章が増補されたものだ。小説『演義』の骨子となった歴史書である正史『三国志』を読み解きながら、波瀾万丈の時代を駆け抜けた英雄たちの実像に迫っていく。

 陳寿は生きている間はとかく悪口を言われどおしで、挫折つづきの不幸な歴史家でしたが、その著述はこのようにして時間を越え、脈々と生命を保ったのですから、以て瞑すべし(※)というべきでしょう。(本書50ページ、注釈は編集部)

※「もっめいすべし」…慣用句。これで心残りなく目を閉じる(死を迎えられる)ことができる、との意。

 正史『三国志』は、著者である陳寿ちんじゅ(233-297年)が三国時代終わりを迎えた頃に書き始め、数年をかけて完成させたものだ。さらに約100年後に裴松之はいしょうし(372-451年)が注釈をつけ、本文と注釈を併記する形で今日まで読み継がれている。
 注釈者である裴松之の人生が順風漫歩であったのに対して、著者の陳寿の人生は讒言により左遷されるなど苦難に満ちたものだった。また後代の歴史家からも非難されることが多い。
 しかし彼の文章を虚心坦懐に読むと、大半の非難は彼を陰険な歴史家として印象付けようとする悪口であることがわかる。
 陳寿は歴史家としての立場から魏を正当王朝として扱っており、人物評価には公正であろうと努めている。しかし蜀に対する記述では、劉備をあえて「先主」と記し、諸葛亮を歴史上の大政治家である管仲や楽毅がくきに比肩しうる才能の持ち主と位置づけている。著者は陳寿の文章について、微妙な言葉の使い分けによって、故国と先達への尊敬の念を伝えようとする「春秋の筆法」をもって綴られたものであると評価している。

なぜ黄巾の乱は起きたのか

 皇帝が宦官を利用して外戚のおさえこみに成功すると、今度は宦官の勢力が強まり、威勢をふるうようになる。と、またその次は、のさばりかえった宦官をやっつけて外戚が強くなるというふうに、後漢王朝ではずっと、外戚と宦官が葛藤をくりかえし、はげしく争う状態がつづいたのです。(本書5ページ)

 群雄割拠する三国時代は「黄巾の乱」によって幕を開けた。当時、十常侍じゅうじょうじといわれる宦官たちが横暴をふるっていた。こうした政治状況はなぜ生まれたのか。
 後漢王朝は成立した当初から先代の皇帝が崩御し幼い息子が帝位に就くと、必ずといってよいほど補佐を口実に母方の親戚が政治的に関与した。だが皇帝が成長すると、宮中で身近に使える宦官を頼り外戚を抑え込もうとする。こうして外戚と宦官による権力闘争が繰り返され常態化していた。当時は特に宦官の勢力が極大化し、役人は腐敗していた。
 際限のない権力闘争とは巨大な政治的空白を生み出し、民衆の政治不信は極限まで高まった。それが引き金となり、黄巾の乱が起きたのである。
 民衆不在の不毛な権力闘争は、最終的に政治的破局を招き、多くの人々を不幸のどん底に叩き落す。現代にも通じる歴史の教訓である。

史実からみる諸葛亮

 それはさておき、初対面の劉備に向かって、これだけのことを滔々と述べたてたところをみると、もともと諸葛亮には長い期間をかけて練った「天下三分」のプランがあったと思われます。諸葛亮にそういうプランがあり、それを実現するのに最適のリーダーとして劉備が出現したということでしょう。(本書153ページ)

 三国志の登場人物で、ひときわまばゆい輝きを放つのが諸葛亮である。小説『演義』では、神算鬼謀と称される人知を超えるような計略を縦横無尽に用いる天才軍師とされている。しかし、現実には軍事家としては正攻法を好む人物であり、奇襲戦法などを嫌う人物であったようだ。すぐれた政治家にして外交官というのが彼の実像に近いのであろう。
 それでは劉備はなぜ20歳も年下である諸葛亮に対し、「三顧の礼」を尽くして自軍に迎え入れたのだろうか。
 著者によれば、三国志の英雄たちのなかで貧困層出身は劉備だけであった。それでも生来の人格的魅力から関羽や張飛などの多くの英傑を味方につけ、乱世を渡り歩いてきた。しかし彼には決定的に欠けているものがあった。それは大局から情勢を的確に判断する視点であり、未来へ向けての透徹した展望である。まさにその持ち主こそが諸葛亮であったのだ。その後、劉備は諸葛亮が示した「天下三分」という計画に従い、着実に勢力を拡大し、やがて三国の一角を占めるようになる。
 劉備没して後、その志を受け継いだ諸葛亮は漢王朝を再興すべく魏の討伐に向かう。この際、劉備の息子劉禅りゅうぜんに奏上したものが名文として知られる「出師の表すいしのひょう」である。本書にはその原文と書き下し文が収録されている。
 その後、彼は幾度も魏に挑み続ける。だが最後の遠征の際、これまでの過労がたたり陣中でその生涯を終えることになる。亡くなる直前に諸葛亮は「30年先のことは私にも分からない」と漏らしたという。
 曹操の魏、孫権の呉という他の2国では、骨肉相食む後継者争いが起こり、数多くの有能な家臣も巻き込まれ命を落とした。だが、不思議なことに蜀だけは、劉禅が暗愚な人物にもかかわらず、後継者問題が起こることはなかった。2強1弱という状況下で諸葛亮没後30年、国をたもつことができたのだ。
 生前、彼が自身の死後に備えて、人知れずさまざまな方策をめぐらせていたからだろうか。いずれにせよその見識には驚きを禁じ得ない。
 こうしてみると、後世の民間伝承が諸葛亮を超人的な能力を有する伝説的な人物として描いたのも理由のないことではない。漢王室の復活によって戦乱の世を終息に導くという理想を掲げ、その理想を現実にするべき「天下三分の計」という具体的な展望を導き出し、実現に向けて愚直に邁進する。その姿に民衆は為政者としての模範を見いだしたのではないだろうか。ここにこそ諸葛亮の真の勝利と栄光があるといえよう。

『「三国志」を読む』(井波律子著/岩波現代文庫/2025年5月刊)

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こばやし・よしお●1975年生まれ、東京都出身。機関紙作成、ポータルサイト等での勤務を経て、現在はライター。趣味はスポーツ観戦。