「だから日本はズレている」――変革はズレの認識から

社会学者 
古市憲寿

 日本が抱えるさまざまな課題。そこにある多くのズレに着目し、そこを浮き彫りにすることで見えてくる変革への道がある。

若者目線から感じたズレ

 以前に書いた『絶望の国の幸福な若者たち』という本を出版して以来、僕自身が若者として、いろいろな場所に呼ばれる機会が増えました。若者としての意見を求められる中で、そこで出会った〝大人の人たち〟を不思議な存在だなと感じていました。
 昨年(2013年)、消費税を議論する会議に呼ばれた時、僕は珍しくまともな意見をしたんです(笑)。
「日本は社会保障が高齢者には手厚いが若年層、現役層に対しては非常に少なく、それが少子化の一因にもなっている。そこを変えることは若者のためだけでなく、日本全体にとって必要なことだ」と。
 でもその会議の後に、ある〝おじさん〟から「君の意見はよくわかる。最近の若い子は性欲がないから少子化なんだよね」といった全くズレた感想を聞かされたんです。僕は社会保障の話をしているのに、この〝おじさん〟には全く伝わっていないんだなと感じました。
 そうした場面からズレや違和感を意識するようになり、若者目線から見た日本社会に対する違和感やズレをテーマにまとめてみようと思い、このたび『だから日本はズレている』を出版しました。
 本の中では日本に潜むさまざまなズレを書いています。それは言い換えれば迷走する〝おじさん〟と、それに割を食う若者の物語ともいえます。ただ、〝おじさん〟といっても単に中年男性を指しているのではありません。自分が既得権益の中にいることを疑わずに、そこに甘んじて生きている人のことを、本の中では〝おじさん〟と呼ばせていただきました。
 特に、日本の男性は高度成長期やバブル期においては誰もが〝おじさん〟になることができました。つまり、大学を卒業して、会社に入れば、終身雇用が保障されているという、大企業をはじめとした日本型のコミュニティーの中に入ることのできた人がたくさんいたのです。その恩恵を受けながら毎日を過ごしてきた〝おじさん〟は、その状況を当たり前のものだと思っています。
 しかし、それは、日本がたまたま高度経済成長期にあり、その頃にたまたま人口の多かった若者世代が会社とともに成長していったという、偶然の上に成立したものです。にもかかわらず、時代も社会も変わったのに〝おじさん〟は、自分たちと同じ価値観を今の若者に求めてしまっています。そこから生じる違和感やズレを〝おじさん〟という言葉で言い表したのです。

〝おじさん〟は金は出さずに口は出す

 よく大企業の〝おじさん〟は、若者に「頑張れ」と言います。3・11以降、社会の風向きが変わってきている中で、このままでは、国も企業ももたないかもしれないと〝おじさん〟も感じはじめているのだと思います。
 ただ、「若者に頑張ってほしい」と口にはするものの実際には、その企業の意思決定の場には全くといっていいほど若者は入っていません。たしかに終身雇用を前提とする企業では、在籍年数が長い人のほうが企業内の内部事情には長けているかもしれません。しかし、市場というフィールドで見た場合、若者だから経営判断ができない、ビジネスが成功できないということはないと思います。実際に日本人の若い経営者で成功している企業はいくつもあります。
 本当に若者の力を発揮させたいのであれば、意思決定の機会を与えるか、お金やある程度の権限を譲渡するべきです。失敗だってあって当然なので、それを認めるべきです。
 掛け声だけの「頑張れ」や、形式的に若者を会議へ参加させるだけでは〝おじさん〟の自己満足にすぎないと言わざるを得ません。
 むしろ本当は、社会や企業を変革していくのは若者ではなく、やはり人脈もお金も経験もある〝おじさん〟なんです。それなのに自分は責任を持たずに安全圏に身を置き、若者が変えてくれると期待して、口だけ出すのは都合が良過ぎると思います。
〝おじさん〟は、金を出しても口は出さないが理想ですが、残念ながら口だけ出して金は出さないのが実情だと思います。

戦争における歴史観のズレ

 日本のズレという点では、戦争についての歴史観についてもズレを感じます。
 日本の中では、右派も左派も「第2次世界大戦=戦争」だと考え過ぎな面があります。実際、もはや国と国との総力戦はほとんど起こっていません。今は民族紛争であったり、領土間際の交戦であったり、テロのような「新しい戦争」が世界の主流になっているにもかかわらず、当時の戦争だけを戦争と思い込んでいます。
 それだけをもとに戦争反対を訴えることは、思考が停止してしまっている状態だと思いますし、今世界で起こっている新しい脅威を見逃す恐れもあります。
 それから、日本各地には、平和博物館がたくさんありますが、それは単なる箱ものにすぎません。箱ものである以上、時間とともに古びていきます。しかもそこでは、日本の歴史観が1つに総括されていないために、抽象的なことしか表記されません。国立博物館であればあるほど、イデオロギーに踏み込むようなことは書けないので、非常に無味乾燥な内容になってしまい、ますます戦争の風化というスパイラルが進んでいってしまいます。
 もしも、本当に後世に伝えることを目的とするのであれば、一種のエンターテインメント性を持たせたコンテンツとして提供するような視点が大事だと思います。実際、世界には、そのような戦争博物館が存在しています。
 また、戦争を知らない世代が「知らないこと」を恥ずかしがる必要もないと思います。もはや戦争から70年近くが経った今、従軍経験者は人口の1%程度にすぎません。
 そのかわりに、今の日本人の多くは戦後70年近く続いてきた平和という時代を知っています。そのことをもっと誇るべきです。これからは、平和な時代が続いてきたことからしか、憲法を含めたさまざまな議論はできないと思います。

互いの持っているものを差し出す

 それでは、日本社会の中にある、〝おじさん〟と若者とのさまざまなズレを埋めていくためにはどうすればいいか。それは、〝おじさん〟と若者がお互いに持っているものを差し出すことが大切ではないかと考えます。
〝おじさん〟であれば、お金や人脈、権限を委譲する、若者側はアイデアをどんどん出していく。そうやって「一緒に組む」というやり方です。
 アメリカを見てみるとアイデアと体力のある20代の起業家の後ろには、かつて成功した人脈・経験・お金のある40、50代の起業家たちがサポーター的に存在しています。こうした〝おじさん〟と若者が手を組むことは、日本でも不可能ではありません。むしろ、多様な人種と階級の人が1つの社会をつくっているアメリカやヨーロッパに比べれば、日本にとっては、同じ日本人で日本語を話す意味で、はるかにハードルが低いことだと思います。
 そのように、お互いが持ち寄って協力して、新しい仕組みやライフスタイルをつくっていくことがズレを埋めていくことになります。
 そのためにもまずは、ズレを認識することです。自分と社会、自分と上司、自分と部下とのズレを認識し、自分を相対化することから変革は始まっていきます。
 今の自分や社会は、当たり前に存在しているのではなく、さまざまなオルタナティブ(代替物、代案)があり得た中で存在しているというように相対化することができれば、それは手を加えればもっと良くしていくことができるという考えにつながります。
 日本の在り方を考える上で、まずはズレを認識することから始めることが大切です。

<月刊誌『第三文明』2014年7月号より転載>

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『だから日本はズレている』
古市憲寿

定価 799円/新潮社/2014年4月17日発刊
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ふるいち・のりとし●1985年、東京都生まれ。東京大学大学院博士課程在籍。慶應義塾大学SFC研究所訪問研究員(上席)。専攻は社会学。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した著書『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)で注目される。大学院で若年起業家についての研究を進めるかたわら、マーケティングやIT戦略立案、執筆活動、メディア出演など、活動する。著書に『僕たちの前途』 『誰も戦争を教えてくれなかった』(共に、講談社)など。近著に『だから日本はズレている』(新潮新書)がある。