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連載エッセー「本の楽園」 第177回 僕の漫画史

作家
村上政彦

 いちばん最初に読んだ漫画は、むかし暮らしていた長屋の、ご近所さんの二階にあった漫画雑誌だったとおもう。まだ小学校にあがるまえだが、なぜか、短篇漫画のストーリーをいくつか憶えている。
 僕は、けして物覚えのいいほうではないので、よほど深い印象があったのだろう。けれど、内容は教訓的な説話風のもので、強い衝撃を受けたわけではないから、どうして覚えているのかわからない。
 やわらかい明かりの電灯の下、大人たちが難しい話をしていて、子供の僕は階段の上り口に近い薄暗い隅のほうで、その家の主が貸してくれた漫画雑誌をひっそり読んでいた。それがその家へ行く愉しみだった。
 自分で漫画を買うようになったのは、小学生になってからだ。当時、『少年マガジン』『少年ジャンプ』『少年サンデー』『少年キング』『少年チャンピオン』と、週刊の漫画雑誌があって、月刊では、『ぼくら』『冒険王』があった。僕は、すべてを買って読んでいた。
 高学年になって、『ガロ』を知った。この雑誌は僕の御用達の本屋には、置いてあったり、なかったりして、なかなか手に入れるのが難しかった。内容は、それまで僕が読んでいた少年誌と違って、かなり大人な世界が描かれていた。だから、恐る恐る手を伸ばし、ページを開いた。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第176回 朝のあかり

作家
村上政彦

 10代のころ、詩らしきものを書いていた。好きな詩人は、立原道造、中原中也。立原の詩は、いまでも好きな一節を暗唱できる。あるスーパーマーケットでごみ処理のアルバイトをしていたとき、小雨の降るなか、ごみを運ぶトラックが来るのを待つあいだ、その詩を口ずさんでいた。いつかプロの文筆家になったら、このことを書いてやろうとおもったことを、はっきりと憶えている(ついに書きました!)。
 ここでその詩を引きたいところだけれど、とりあげる本が詩人・石垣りんの『朝のあかり』というエッセイ集なので、やめておく。
 率直に言うと、その当時、僕は石垣りんを読んだことがなかった。いまや日本を代表する詩人のひとり。でも、僕は読んだことがなかった。名前は知っていたとおもう。そのころ『現代詩手帖』という現代詩の専門誌を読んでいたので、見かけたことはあったはずだ。
 それが読んだことがないというのは、つまり、関心が持てなかったわけだろう。僕は、立原道造や中原中也の抒情に魅せられていて、自分もそういう詩を書いていた。石垣りんの詩は、彼らの抒情詩とはちがう。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第175回 編集の提案

作家
村上政彦

 僕の本業は小説を書くことだ。一般に小説家とは孤独な仕事だとおもわれているらしい。確かに書くときには独りである。口述筆記というやり方もあるけれど、僕はパソコンのワードプロセッサー機能を使っているので、速記者や記録係はいない。
 ただ、実は、編集者という存在がある。彼らは僕の書いたものを読んで、意見を述べ、ときにアイデアを出し、最終的に作品の評価をする。編集者が納得しないと活字にならないのだ。
 つまり、書くときは独りだけれど、僕ら小説家は編集者の眼を感じ、ふと一緒に書いているような錯覚になることもある。編集者は伴走者なのだ。いい編集者はそれを意識していて、こちらが必要なときに相談に乗ってくれたり、思いもかけないときに連絡をくれたりする。
 業界で有名な編集者の言葉に、「編集者は語らず。ただ書かせるのみ」というのがある。彼らは黒子であって、表には出ない。少なくとも僕がデビューしたころの編集者はそうだった。
 ところが最近、編集者が表に出てくることがある。自分の編集哲学を語ったり、それを本にしたり。これは世の中が「編集」という技を求めているからではないかとおもう。
 では、「編集」という技の本質はなんだろうか? 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第174回 脳を創る読書

作家
村上政彦

 二十歳になるかならないかのころ、うちからかなり離れた駅近くのビルに大型書店が入った。それまで僕は、うちから歩いて数分の小さな書店と、バスに乗って10数分の2階建ての書店に通っていた。
 いまはショッピングモールやデパートに大型書店があるのは珍しくないけれど、当時はこの書店ほど品揃えの多い書店を知らなかった。友人といっしょになかへ入って、僕は静かに興奮していた。
 僕がいちばん好きなのは、読書だ。それもスイーツをつまみながらの。新刊、古書問わず、買ったばかりの本を手にして、チョコや豆大福を頬張っているとき、僕は生きていてよかったと実感する。この快楽を得ることができるなら、100歳までがんばって生き抜いてやる。
 大型書店で背の高い棚にぎっしりならぶ本を見た僕は、宝の山を見つけた海賊のように、できればここにある本を全部手に入れたいとおもった。でも、それは叶わない。その代わり、1冊ずつ棚からぬきだして、ぱらぱらとページをめくる。
 どれぐらい時間が経ったか、「おい、帰ろうよ」と友人が言う。帰る? こんなにお宝があるのに? 友人の顔を見ると、えらく不機嫌だ。「まだ、いいじゃん」。僕がいうと、「じゃ、俺、帰る」。「いいよ」。友人は怒ってほんとうに帰ってしまった。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第173回 物語を生きる

作家
村上政彦

 河合隼雄というユング派の心理学者のことは、若いころから知ってはいた。高名な研究者であり、カウンセリングをおこなう臨床家でもある。しかし、なぜか、本好きの僕が河合さんの著作を手にとることはなかった。
 べつに河合さんを毛嫌いしていたわけではないし(直接お目にかかったこともないので嫌う理由がない)、ユング心理学には関心があったので、彼の著作を読んでいても不思議はなかった。いや、読んでいないほうが不思議だといえる。
 人との出会いにタイミングがあるように、本との出会いにもタイミングがある。そのタイミングがやってこなかったのだ――と書けば、注意深い読者の方は、もうお気づきだろう。やってきたのだ、タイミングが。
 ある日、馴染みの古書店をパトロールしていたら、『物語を生きる――今は昔、昔は今』というタイトルが眼についた。物語は、僕にとってきわめて大切なものだ。手にとるのが自然だった。少し破れた帯には、「生きるとは、自分の物語をつくること!」とある。買わないわけにいかない。
 著者は、河合隼雄さんだった。古書店の表でぱらっとページをめくってみたら、第一章からやられた。 続きを読む