連載エッセー「本の楽園」 第78回 シウマイの丸かじり

作家
村上政彦

 このあいだ新幹線で九州への日帰り出張をやった。朝は5時起きで、車で妻に最寄り駅まで送ってもらって、東京を7時の、のぞみに乗った。小腹が空いたのでおにぎりの弁当を買って、それを食べてから目的地の小倉までほとんど意識がない。爆睡である。
 昼頃に小倉へ着いて、仕事関係の何人かと合流してホテルで会食。その後、僕は某作家と対談した。2時間ぐらい言いたい放題しゃべりまくって、疲れたのでケーキとコーヒーを頼んで終わり。
 さて、問題はここからである。みなと別れて駅へ向かいながら僕が考えていたのは、書店はどこにあるか? ということだった。東京駅まで5時間弱ある。行きのように爆睡はできないだろう。そうすると、帰りの新幹線のなかで読むものが欲しい。
 いつもなら家から持参してくる。しかし今日は現地で調達するつもりだった。九州だからといって珍しい本を売っているわけではない。書店の品揃えは、だいたいどこも同じである(最近は独自に選書をする独立系書店も増えているが)。
 ただし、九州まで来たのだから、帰りに地元の書店でお金を落としていくのは、本好きの仁義のようなものである。駅ビル内をパトロールしていたら、見つかった。小さな本屋だ。そうそう、僕が探していたのは、こういう本屋なのだ。
 何を買おうか。ミステリーというのは平凡だ。恋愛小説という気分でもない。あちこち棚を見ていたら、『シウマイの丸かじり』というタイトルが眼に入った。著者は、東海林さだお、とある。おお、あの食エッセイで有名な、東海林さだお、の本だ。決めた。
 僕が求めていたのは、新幹線のなかで、のんびりと、活字で眼を遊ばせることのできる本だった。おそらくこれ以上の本はない。新幹線の席へ着いて、鮨の弁当を買って、まずは腹ごしらえ。それから、おもむろに本のページを開いた。
 実は、僕は、東海林さだお、の本を読んだことはない。これが初見である。しかし何となく、本好きの勘で、こういう本だろうな、という推測はついていた。見事に当たった。僕の求めている、活字で眼を遊ばせることのできる本だった。
 いきなり問題です。「後家蓋」とは何か? 

 急須などの本体が毀れてしまって残されたフタ。
 逆に、フタのほうが毀れて、他の急須のフタで代用するフタのことをいうそうです。

 これは「フタたちよ」という、世にあるフタを考察した文章から。なるほど。知らなかった。去年、還暦を迎えたというのに、世の中にはまだまだ知らないことが、たくさんあるものだ。僕はひとつ得をした気分になった。
 さらに読み進んでいくと、「納豆は納豆日和に」があった。なんと、僕が長年にわたって悩んでいた納豆問題について書いているではないか。

 タレの小袋と辛子の小袋である。
 これがまあ大変な難儀で、まして老眼の身の上、切り口を探して小袋をタテにしたり、ヨコにしたり、ひしぎ出して指先を汚したり、拭いたり……。
 各納豆会社に告ぐ。
 これらの小袋問題の改善をこれまで試みた会社はあるのか。
 かくも苦しんでいる全国民の声は各納豆会社に届いているのか。

 僕は、そうだ、そうだ、と激しく同意していた。やはり、僕の予想通り、東海林さだお、は只者ではない。食エッセイは多くあれど、この小袋問題を取り上げたのは、彼のほかにいないのではないか。
 そんなこんなで、いつの間にか新幹線は、すでに東京まであと半分のところを走っていた。僕は、心地よく東海林マジックにかかりながら、活字で眼を遊ばせ、ゆったりくつろいでいた。
 東京まであと半分。僕は一度読み終えた『シウマイの丸かじり』を、また最初から読み始めた。これは再読に耐える本である。著者の文章の腕は、そうとうなものだ。

参考文献:『シウマイの丸かじり』(東海林さだお著/文春文庫)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。