【コラム】日本の中華街はなぜ生まれたのか――近代日本の黎明を支えた華僑たち

ライター
青山樹人

なぜ横浜、神戸、長崎にあるのか

 横浜中華街、神戸南京町、長崎新地中華街は、日本に存在する三大中華街だ。美食で有名な店も多く、いずれの都市でも地元を代表する観光スポットとなっており、近年では海外からやってくる旅行者にも人気が高い。とくに横浜中華街は、世界屈指の規模を持つチャイナタウンである。
 しかし、なぜこの3つの都市に中華街が存在するのか考えたことがあるだろうか。
 まず、一番歴史が古いのは長崎。これは、江戸時代の鎖国期間中も、長崎の出島でのみ明朝(のちに清朝)、李氏朝鮮、琉球、オランダとは交易が続いていた名残である。一説では、最盛期には長崎に居留する華人は、長崎の人口の1割以上を占めたという。ちなみに長崎から上海までは約850Kmで、東京までの967Kmよりも近い。「一衣帯水」の言葉どおり、東シナ海を渡ればそこは中国大陸なのだ。
 では、横浜と神戸の中華街は、どのような経緯で誕生したのか。
 安政5年(1858年)に日米修好通商条約が締結されると、翌安政6年、横浜、長崎、函館が開港した。当時のおもな輸出品は生糸や茶であった。
 神戸港のルーツは、平清盛が日宋貿易の拠点とした大和田泊(おおわだのとまり)だが、やはり日米修好通商条約を受けて、横浜に遅れること9年、慶応3年(1863年)に兵庫港として開港した。
 開港した横浜と神戸、長崎には、やってくる西洋人たちのための「外国人居留地」が設けられた。今も残る横浜の山手や山下町、神戸の海岸通りや北野、グラバー邸で有名な長崎の山手は、幕末から明治期、こうした西洋人たちの住居や商館が建ち並んだ場所だ。
 しかし、黒船の来航から急展開での〝開国〟である。いきなり欧米人たちがやってきて居住をしはじめ、貿易がスタートするとなっても、日本側にはそれに対応する知識も用意もなかった。
 ここで活躍することになったのが、欧米人たちと一緒に日本にやって来た華僑だった。欧米人たちが日本に生活拠点を構えるには、たとえば洋服や靴の仕立て・修繕、食材の調達、メイドなど、いち早く西洋文化に接していた華僑たちのサポートが必要だった。同じ漢字文化圏である彼らは、筆談によって容易に日本人との通訳ができたし、なによりも日本の人々が不慣れだった為替や貿易の仕組みを理解していた。
 こうして、横浜と神戸、長崎では、欧米人たちと共に華僑たちも居住するようになった。今も、かつての欧米人たちの居留地に隣接する形で中華街があるのは、こうした事情による。彼らこそ、日本の近代化の黎明期を縁の下で支えた立役者だったのだ。

日本人と華僑が隣人として暮らす街

 もっとも、今のような中華料理店を中心にした中華街(南京町)が成立するのは、中華料理への馴染みが広がる20世紀に入ってからの話で、最初から華僑だけの町になっていたわけではない。
 神戸華僑歴史博物館館長の藍璞さんは以前、『第三文明』(2008年12月号)で次のように述べている。

 神戸の南京町は、当初から世界中の食材が集まる場所といわれてきました。そして、それは中国人のための街としてだけではなく、日本人と中国人が親密につき合う街として栄えてきました。古い地図や写真を見ると、日本の食材などを扱う日本人の店が中国人の店と軒を並べていますし、買い物客には日本髪やカンカン帽の日本人の姿が目立ちます。
 たとえばアメリカのチャイナタウンなどは多くの場合、白人からの差別や暴力に対抗するために生まれたのですが、神戸の南京町では日本人と華僑が隣人として暮らしてきたのです。

 言うまでもなく、日本は古代より、中国から多くの文物や学術知識をもたらしてもらってきた。遣隋使、遣唐使の時代はもちろん、その後も宋や明から多大な影響を受け続けた。漢詩に代表される漢学は、それこそ昭和の時代まで知識人の必須の教養であったといってよい。
 その〝文化の恩人〟の国であり、憧憬の国であった中国に対し、日本人の中に「2等国」などという夜郎自大なまなざしが生まれるのは、日清戦争(1894~95)に勝った後である。欧米の植民地化を回避できた日本は、その欧米に好きなように食い荒らされる隣人を下に見ることで「1等国」だと浮かれるようになったのだった。
 一方で、その苦悩する中国の人民を救うべく辛亥革命に立った孫文を、物心の両面で支援したのも、彼の日本の友人たちだった。世界との玄関口であった横浜、神戸、長崎には、開明的な思想を持った国際人が多く、その中には貿易で財を成した人々もいた。日本に亡命した孫文は主にこの3都市を拠点とし、その支援者たちによって反転攻勢への足場を築いた。
 人と人、社会と社会、国と国、文明と文明の関係は、常に不確かに揺れ動くものであり多面な表情と要素を持つものだ。硬直した予定調和でないからこそ、そこから思いもかけない新たな創造がある。
 人間の成熟と人格が端的に表れるのは、他者に対してリスペクトを前提にして向かい合うことができるかどうかだろう。他者を蔑むことでしか得られない自尊感情は、所詮は自分で自分の誇りを傷つけるものでしかない。
 横浜、神戸、長崎に残る中華街は、近代日本の船出を支えてくれた華僑たちの〝遺産〟であり、歴史の不幸な波浪を越えてなお、隣人同士が共に暮らせることを証明する場所なのである。

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あおやま・しげと●東京都在住。雑誌や新聞紙への寄稿を中心に、ライターとして活動中。著書に『宗教は誰のものか』(鳳書院)など。