僕が小説を書き始めたころ、アイドルは中上健次だった。一度、人を介して会いたいといわれたことがあったのだが、酒場への呼び出し出しだったので、生意気にも断ってしまった。中上健次は特別な存在だったから、そういう会い方をしたくなかったのだ。
できれば、文芸誌の対談とか、ちゃんとした会い方をしたかった。その後、しばらくして中上は大病を患って亡くなった。僕はそれまでに彼と対談をするほどの出世はできなかった。あー、どうしてあのとき、会っておかなかったのだろう、といまでも溜め息が出る。
小説家・中上健次の名が大きく世に出たのは、『岬』という小説が芥川賞をとったからだった。この作品は、一種の家族小説と読める。主人公の秋幸は土方である。土をめくり、汗を流し、飯を食う――そんな単純な生き方を心地よいとおもっている。
ところが、秋幸の家族関係は複雑だ。彼が、「あの男」と呼ぶ実父には、ほかにも2人の情婦がいて、子供も産んだ。彼の母は、そんな夫と別れ、誠実な男と再婚した。男には連れ子が一人いた。
つまり、何人かの腹違いのきょうだいと血の繋がりのないきょうだいがいる。秋幸はそういうしがらみをうっとうしいと感じている。特に血縁はわずらわしく、人を縛る。こういう血のしがらみを描いた家族小説は、昭和だとおもう。
文学は、わずらわしい血縁で人を縛る家族を解体しようとした。それが昭和の家族小説だと、僕は考える。
平成になると、家族小説も様相が違ってくる。このころすでに人々の意識のなかでは、家族は解体していた。
おこがましいが、僕が書いた『サクラダ
そこに血のしがらみなどもはやない。登場人物たちは、聖なるトライアングルを活用して、演劇的に家族を模した関係をつくる。これは、父、母、兄、姉、弟、妹などをデリバリーするという小説で、われながらおもしろいアイデアだったとおもう。
では、令和の家族小説は、どうか。『くるまの娘』という小説を読んだ。書き手は、まだ20代の女性だ。中上健次のファンだというからうれしい。この作品に登場する家族は、すでに壊れていて、誰もが傷ついている。
母は脳梗塞の後遺症が残って、記憶障害と左半身麻痺となり、パニックになると、泣き、喚き、暴れる。父は実母の奔放な生き方のおかげで、いびつな性格となり、スイッチが入ると暴力を振るう。
そのくせ、主人公のかんこ(かなこ)と、その兄、弟に勉強を教えて、難関の私立中学へ入れる。自分も国立大学を卒業して、いい会社に勤めている。
かんこの兄は、父の背丈を超えるようになると、大学を中退して家を出てしまう。彼の心にも深い傷がある。弟は高校への進学をきっかけに、母方の祖父母の家で暮らすようになる。彼は中学のころ、いじめを受けていた。
物語は、父の実母の死から始動する。家族は車で実家のある栃木へ向かい、まだ壊れるまでのように車中泊をして、昔を懐かしむのだ。兄はすでに結婚していて、妻と一緒に彼らと合流するが、ビジネスホテルに泊まる。
葬儀を終えて、母は、昔のように遊園地に行きたいと言い始める。父は、だったらおまえが運転しろと、運転席を移る。麻痺が回復しつつあった母は、ハンドルを握る。かんこがいつの間にか眠ってしまい、眼を醒ますと、母は涙と鼻水でどろどろになりながら、「しんじゅうする、しんじゅうする」といっている。
結局、車は斜面に乗りあげて停まる。かんこが、壊れた家族を捨てられないのは、こんな思いがあるからだ。
愛されなかった人間、傷ついた人間の、そばにいたかった。背負って、ともに地獄を抜け出したかった
これは血のしがらみを解体するのでも、家族の枠組みをリサイクルするのでもない、令和の家族小説のスタイルではないか。
僕は、いいものを読んだと得をした気分になった。
お勧めの本:
『岬』(中上健次著/文春文庫)
『サクラダ
『くるまの娘』(宇佐美りん著/河出書房新社)