連載エッセー「本の楽園」 第134回 パムクの文学講義

作家
村上政彦

 ハーバード大学には、「ノートン・レクチャーズ」と呼ばれる詩の連続講義がある。これはひとりの講師を教授として招いて、毎年開かれている。講師の顔ぶれがすごい。T・S・エリオット、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、ウンベルト・エーコなどの世界的な詩人、小説家ばかりか、ベン・シャーン、イーゴリ・ストラヴィンスキー、レナード・バーンスタイン、ジョン・ケージなど、名だたる画家や音楽が教壇に立ってきた。
 トルコの小説家オルハン・パムクも、そこに名を連ねた。彼がノーベル文学賞を受けたのが2006年。「ノートン・レクチャーズ」に招かれたのは、その3年後だった。ハーバード大学の学生が羨ましい。ボルヘスやエーコの講義は、僕も聴きたかった。もちろん、パムクの講義も。
 ま、本という便利なものがあるお陰で、ハーバード大学の学生でなくとも、内容を知ることはできる。こっそり、パムクが講義をしている様子を見てみよう。

小説はもうひとつの人生である

 冒頭からこれですよ。いいですね。確かに僕らは自分を離れることはできないけれど、小説を読むことによって、他者の人生を追体験することができる。他者の眼で世界を見る――これは生きていくうえで、とても大切なことだ。小説はそれを可能にしてくれる。
 ちょっと愚痴をいわせてもらいたい。いま日本では文学が冷遇されている。文学書が売れない、というような話ではない。学校の教科書から小説や詩が消されようとしているのだ。確かに、小説や詩で胃袋を満たすことはできない。しかし、魂を満たすことはできる。
 人間にとって、胃袋を満たすことと同じほど、魂を満たすことは重要だとおもう。少なくとも、僕はそうだ。いや、僕と同じような人は少なくないはずだ。それなのに国の教育政策として、いちばん多感な時期の子供たちから、小説や詩に触れる機会を奪うなんて、いったいどういうつもりなんだろう。
 文学に携わる者としては、ここは抵抗したい。それで先回に続いて、文学についての本を取り上げたわけだ。

小説を読む真の楽しみは、その世界を外からではなく、そこに住む主人公たちの目を通して見る能力から始まります

 パムクも僕と同じようなことをいっている。小説や詩を冷遇している人々は、小説を読まないでも、そういう体験ができるのだろうか。それができないと、何をするにも、他者のことは考えずに、自分の考えばかりに固執するではないか。そういう利己的な人とはつきあいたくない――
 ごめんなさい。また愚痴になった。本筋に話を戻して、と。パムクは、この講義でキャラクターやプロットや言葉について論じているが、いちばん強調しているのは、「小説の中心」という考え方だ。

小説の中心とは、人生についての重大な意見または洞察であり、実在か架空化はともかく、深く埋め込まれた謎の一点です

 人は小説を読むとき、小説の中心=小説の真の主題を探している。例として引かれているのは、メルヴィルの『白鯨』だ。ボルヘスは、いう。「はじめ、主題は捕鯨人たちのつらい生活だと読者は考えるかもしれない」。『白鯨』の序盤は銛打ちなど、捕鯨についての詳細が語られているからだ。
「しかしその後、主題は白鯨を追いつめ殺すことに熱中するエイハブ船長の狂気」だとおもうようになる。作品の中盤は彼の心理を執拗に描き出している。ところがボルヘスは、この小説の中心がまったく違うことを示す。

一ページごとに物語は大きさを増し、ついには宇宙規模に達する。

 つまり、ここまで読み取らなければ、読者は『白鯨』という小説の中心をとらえたことにならない。うーん、奥が深い。『白鯨』が読みたくなってきたぞ。
 というわけで、やっぱり、読書はおもしろい、ことに小説は愉しい、と結論して、今回は終わることにする。
 みなさん、小説や詩を読みましょう。

お勧めの本:
『パムクの文学講義』(オルハン・パムク著、山崎暁子訳/岩波書店)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。