連載エッセー「本の楽園」 第131回 アメリカ版「雨ニモ負ケズ」

作家
村上政彦

 デヴィッド・フォスター・ウォレスという作家は知らなかった。重い精神疾患を患っていて自死したという。その3年前、アメリカのオハイオ州で最古の、ケニオン・カレッジの卒業式に招かれ、20分ほどの短いスピーチをした。
 アメリカ、大学の卒業式、スピーチというと、スティーヴ・ジョブズが思い浮かぶ。彼は2005年にスタンフォード大学に招かれ、卒業生にスピーチをした。「Stay hungry. Stay foolish」(ハングリーであれ。愚かであれ)というフレーズは、巷間に広まったものだ。
 ウォレスのスピーチは、このジョブズのスピーチを抜いて、2010年の『タイム』誌で全米ナンバー1に選ばれた。僕は大学に入学したものの、卒業していないので、卒業スピーチとは縁がない。
 ウォレスが何を話したのか、いろいろ想像を巡らせながら読み始めた。一読して思い出したのは、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」という文章だった。そういう印象を受けたのはレイアウトの作用が大きいかも知れない。
 一見、散文詩のようなスタイルで書かれている。ぎっちりと文字の詰まった本は苦手という方には、お勧めである。読みやすい。しかし内容は、難解とまでは言えないが、考えさせられる。
 ウォレスは、人間の物の見方、考え方の「初期(デフ)設定(ォルト)」は自己中心的にできているという。それを手直しするには、教育、なかんずくリベラル・アーツが必要だ、と続ける。リベラル・アーツとは、「ものの考え方を教える」ことで、

ほんのすこしばかり謙虚になり
じぶん自身とじぶんの確信に
すこし「批判的な自意識」を持つこと

だ。僕らはそういう態度で物の考え方を学ばねばならない。それは、

なにをどう考えるか
コントロールする術を学ぶ
ということ

でもあり、そして、

それは意識して
こころを研ぎすまし
何に目を向けるかを選び
経験からどう意味を汲み取るかを選ぶ
という意味

である。それができないと人は無意味で退屈な日常に埋もれてしまう。
 僕らは違う思考法があることに気づかねばならない。それを学ぶのがリベラル・アーツなのだ。人は誰もが何かを崇拝する。言葉を変えると、何かを渇望する。求めるものを間違えると、悲惨なことになる。
 僕らが求めねばならないのは、自由だ。

ほんとうに大切な自由というものは
よく目を光らせ、しっかり自意識を保ち、
規律をまもり、努力を怠らず
真に他人を思いやることができて
そのために一身を投げうち
飽かず積み重ね
無数のとるにたりない、ささやかな行いを
色気とはほど遠いところで
毎日つづけることです

 それが本当の自由であり、物の考え方を教わるということだ。著者は、このあとに2度続けて、

これは水です

と述べる。つまり、なかなか気づかないけれども、自分の頭で物を考えて生きていく自由こそが、人間にとって不可欠なものだと言うのだ。これは当然のことではあるが、実践しようとすると、なかなか難しい。
 ウォレスと宮沢賢治とは、互いに遠いところにいる作家だとおもう。しかし世界に向き合う態度は、似ているのではないか。僕の手元にある『これは水です』は第9刷だ。こういう本が重版を重ねるのは珍しい。人々はウォレス的思考を求めているのだろうか。

お勧めの本:
『これは水です』(デヴィッド・フォスター・ウォレス著/阿部重夫訳/田畑書店)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。