連載エッセー「本の楽園」 第122回 とっておきの短篇

作家
村上政彦

 僕は、いい短篇小説が書けたら小説家として一人前だとおもってきた。若いころからかなりの数の短篇小説を読んだ。西洋の小説家は、まず、詩人として出発して、やがて小説を書くようになることが多い。
 僕もそれに倣おうとおもって、数編の抒情詩らしきものを書いたが、すぐ詩人になるのを諦めた。詩は書けない。がっかりしていたとき、川端康成の『掌の小説』を見つけた。読んでみると、これは詩ではないかとおもった。川端は詩の代わりに掌(たなごころ)の小説を書いたのだ。
 日本の小説家で詩人として出発して、小説家になった例はあるが、西洋の作家ほど多くはないとおもう。それは日本の短篇小説が詩の代わりをしているからだと僕は見立てた。400字詰原稿用紙で20枚ほどの短篇小説――それは詩でもあり、小説でもある。
 僕が連載を持っている『季刊文科』(鳥影社)の春季号では、『「超短編」のすすめ』という特集を組んでいて、川端康成の掌の小説の名品『心中』が掲載されている。読んでみて、あらためてこれは詩だな、とおもった。
 詩が小説の姿をして現れている――というと、詩とは何か? あるいは、小説とは何か? という問題が生じて、その定義をしなくてはならなくなるが、それは僕の手に余る。定義を専門にする辞典を開いてみると――

(詩とは)自然・人情の美しさ、人生の哀歓などを語りかけるように、また社会への憤りを訴えるべく、あるいはまた幻想の世界を具現するかのように、選び抜かれた言葉を連ねて表現された作品(『新明解国語辞典』第七版)

(小説とは)作者の構想力によって、登場人物の言動や彼等を取り巻く環境・風土などを意のおもむくままに描写することを通じて、虚構の世界をあたかも現実の世界であるかのように読者を誘い込む散文学。読者は、描出された人物像などから各自それぞれの印象を描きつつ、読み進み、独自の想像世界を構築する(同)

 うーん、分かるような分からないような微妙な感じである。ここはざっくりと、詩とは詩情を表現した作品、小説とは登場人物と物語で具体的に何かを表現した作品としよう。
 あぶない、あぶない。そんな話をするつもりではなかった。僕は、とっておきの短篇小説を紹介しようとおもっていたのだ。阿部昭の『天使が見たもの』だ。これは僕が読んできた短篇小説の中でもベスト5に入る。

     ◇ ※「天使が見たもの」の要約

 主人公は小学4年生の少年で、スーパーでパートをしている母親と2人暮らし。生きものを飼いたいと訴えるが、実は、母親は少年ひとりを育てるのでさえ大変だった。彼女は病弱で、月に2、3度は持病の高血圧と心臓の発作を起こして倒れた。
 そういうとき少年は、教えられている通りに医者へ薬をもらいにゆき、自分でご飯を炊いて食べた。インスタントラーメンやコロッケパンが続くこともあった。母親は遅くまで働いていると、疲れているせいで機嫌が悪く、少年に八つ当たりすることもあった。それでも少年は、ひとりで放って置かれるよりは嬉しかった。
 母親は彼に、父親というものは、女が子供を産んでから見つけるものだ、と嘘をついていた。本当は10年前に離婚していたのだ。夫は広告代理店で働いていたのに、馘同然で辞めて働かなくなり、彼女が妊娠していると分かると、おろしちまえよ、といった。
 出産してからも仕事をせず妻の財布から金をくすねてパチンコに出かける日々。たまりかねた彼女は、出て行って欲しいと頼んだ。すると、一瞬顔色を変えたが、今日一日、赤ん坊と遊ばせてくれたら出て行く、といったが、突っぱねた。すると、夫は、じゃあ、と出て行った。
 彼女は子供を育てるのに必死で、夜間の保母をやり、保険の外交員をし、内職でミシンも踏んだ。初めて質屋へも行った。煙草をおぼえ、このごろはウイスキーを飲むようにもなった。
 少年は、なかなか父親が見つからないのは、母親が結婚するには歳を取り過ぎているからだとおもうようになった。それなら、そのうち僕が新聞配達をして父親になってあげるといった。
 ある日、夕刻になって学校から帰ると、母親がパジャマのまま炬燵に足を突っ込んで枕にうつ伏せになっていた。テーブルの上には、発作のときに服(の)む薬と水の半分入ったコップがあり、口から血を出して動かなかった。
 少年は母親の枕と並んだ自分の枕のあいだにうずくまった。しばらくして家に鍵をかけてスーパーの屋上へ昇った。金網を乗り越えて、そのまま飛び降りた。物置き場のコンクリートの上に横たわった少年の手には、藁半紙のメモがあった。
「このまま病院へ運ばずに、地図の家へ運んで下さい。家には母親も死んでいます」
 地図はきちんと描かれていて、スーパーから「やく二百五十メートル」と分かった。

     

 この短篇を読んだとき、僕は透き通った悲哀を感じた。少年を抱きしめたくなった。物語が詩情を表現している。短篇小説のロールモデルともいうべき見事な作品だ。この作品は、実話に基づいていて、遺書はほぼ現実通りだが、母親は病死ではなく、自殺だった。作者は、それを書き換えることで、この短篇を詩にした。
 ところで、阿部昭は短篇小説を「短い話」と定義している。さすがにすぐれた短篇小説の書き手だけあって、定義も簡潔だ。

おすすめの本:
『天使が見たもの 少年小景集』(阿部昭/中公文庫)
『短編小説礼賛』(阿部昭/岩波新書)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。