不確実な時代の「うわさ」と個人の関係を考える

中央大学教授
松田美佐

 人々はなぜ「うわさ」を好み広げるのか。「うわさ」は私たちの暮らしに、どのような影響をもたらすか。人間や社会を「うわさ」から読み解く。

「うわさ」は最も古いメディア

 もともと大学で社会心理学を学んでいた私は、メディアの仕組みや人間のコミュニケーションに興味があり、自然と「うわさ」の持つ特性に関心を抱くようになっていました。
 人間が手にした「最も古いメディア」と呼ばれるうわさは、新聞やテレビが普及しようとも、携帯電話やインターネットが世界中で利用される時代が訪れても、いまだに廃れることなく存在し続けています。

 一方、これだけ多くの人々が日常的にうわさというメディアに接しているにもかかわらず、うわさには悪しきイメージが常につきまとっています。たとえば、「うわさ好きなんてろくな人間ではない」とか「女性はとにかくうわさ話が大好きだ」といった印象で語られがちです。
しかし、居酒屋に行けば、中年男性だって上司や部下の陰口を言っていたり、社内をめぐるさまざまな状況についてうわさ話に興じていたりします。このように世間の誰もがうわさ話をしているにもかかわらず、そのうわさをあいまいな印象や誤ったイメージで評価しています。
 それでは、うわさとはどのようなものでしょうか。うわさは、「人から人へとパーソナル(個人的)な関係性を通じて広まる情報」と定義することができます。よく、デマ・流言・ゴシップ・都市伝説などと、どう違うのか聞かれることがありますが、それらはすべてうわさの一形態としてとらえられるでしょう。
 例を示せば、「○○銀行が倒産する」と人から人へ情報が伝わっている段階では、それが口コミなのかうわさなのかわかりません。事実だと感じる人は「口コミ」だとして、何らかの行動をとるでしょう。一方、「根も葉もない話で、悪意がある」と感じた人は「デマ」と呼ぶのではないでしょうか。つまり、うわさやデマ、口コミなどは、同じ現象に対するラベルの貼り方の違いにすぎないのです。

「風評」自体が被害を与えるのではない

 うわさをとりまく誤解の一つが近年よく耳にするようになった「風評被害」という言葉だと思います。風評被害とは、「風評」、つまり、うわさによって個人や団体、地域などが多くの人から避けられるようになり、経済的損害を被っている状態を指します。しかし、実は風評自体が損害をもたらすのではありません。
 神奈川県の大涌谷周辺の火山活動に関する風評被害もその一つです。現在、同地の箱根山では、小規模な噴火の可能性があるとして警戒レベルが引き上げられています。地元でも町役場が近隣の旅館やホテルと今後の対応を協議していますが、関係者からは「噴火より風評被害が心配だ」との不安の声が寄せられています。
確かに箱根の観光業への影響は避けられない状態です。しかし、観光客の出足が鈍るのは、人々のリスク管理の問題であって、風評、言い換えるならば、うわさだけが原因だとは言えません。
 各種の事例や調査を通じてわかっていることですが、人々は案外冷静な判断をするものです。うわさから得た情報のみで意思決定を行うのではなく、メディアからの情報や公式発表と照らし合わせたり、自分の知識やこれまでの体験を総動員したりして、自分にとって「合理的」な判断を下します。
 箱根山の一件も、「あんな危険な場所に行ったら命を落としてしまう!」とみんなが「誤解」しているのではありません。箱根全体が危ないのではないことがわかっている人でも「ほかにも温泉地はあるのだから、今、わざわざ行く必要はない」と見合わせるのです。代替がいくらでもある今日の社会で、「あえてリスクを取る必要はない」と多くの人が考えた結果が、「風評被害」と呼ばれる事態につながるわけです。
「風評被害」という言葉は便利です。うわさという誰が言い出したかわからないものによって引き起こされたとすることで、責任者が見つからない事態を「社会問題」として提起することができます。
 しかし、この言葉から「間違ったうわさに人々が惑わされている」のだから、「正確な情報さえ届けば『風評被害』は解消されるはず」と考えるのは適当ではないでしょう。「事実」の広報に努めることは大切ですが、それだけでは十分ではありません。別のアプローチが必要なのであって、残念ながら、簡単な解決策はないのです。

うわさの持つ怖さ

 うわさにまつわる問題で、私が特に問題だと考えているのは、事実ではない情報を事実だと言って拡散する行為です。たとえばインターネット上では以前から、ある航空機内で起こった人種差別をめぐる「事件」として、次のような話がまことしやかに広められています。

 あるとき、中年の白人女性がエコノミークラスの座席に着席すると、隣席に黒人男性が座っていることがわかった。激高した白人女性は客室乗務員に座席の変更を要求します。それに対し客室乗務員は、不愉快な思いをさせたことを詫びると、激高する白人女性ではなく、黒人男性をファーストクラスの座席へと案内し、周囲の乗客の喝采を浴びた

という話です。
 これは人種差別を許さない市民による称賛すべき行為の話として広まっていますが、実際に起こったことではありません。しかし、拡散する側はそのことを指摘されると、「事実でなくてもメッセージ性が優れていれば広めてもよいじゃないか」と答えます。指摘する側が「では、フィクション(作り話)として伝えてはどうか」と言うと、「こうした話は事実として伝えるから意味があるのだ」と堂々巡りになってしまう。あるいは、「航空会社はこんな事態には、こういう対応をするものでしょう? 本当になかったと言えるの?」と。
 私はこうした感覚はとても危険だと考えています。自分にとって素晴らしく思える「メッセージ性」は本当に誰にとっても素晴らしいものでしょうか。たとえば、先の航空機の例で言えば、「中年の白人女性は人種差別的な思想を持っていがちだ」との偏見を助長させかねないとは考えられないでしょうか。
 うわさには、社会に大きな影響を与える力があるのですが、時にうわさが広まることで、予期せぬ事態を引き起こすこともあります。かつて関東大震災(1923年)が起こったとき、「朝鮮人が襲ってくる」とのうわさが広がった結果、何の罪もない多くの人々が殺されました。加えて、警察や軍隊、地域の青年団などの救援要員が治安維持に費やされ、臨時の検問所によって救援物資も差し止められたために、震災被害も拡大しました。
 当時はラジオ放送すら始まっておらず、情報といえば人づてに伝わる口コミしかありませんでした。そのようななかで、人から聞いた話を人々は「事実」だと考え、ほかの人に伝えたのです。「事実」だとして伝わってくるうわさを、周りの人々を守りたいとの「善意」から、拡散した人も少なくなかったはずです。もっとも、このうわさは差別や偏見と無関係だったとは考えにくいのですが……。
 たとえ「善意」から広がったうわさであっても、時として重大な社会問題を引き起こしてしまう危険性があることを忘れてはいけないと思います。

あいまいさへの耐性を

 不確実な時代だからこそ、リスクを避けたいがゆえに、すぐに白黒をはっきりさせようとすることがあります。安心を求めて、一刻も早く結論を得たいと思うこともあるでしょう。その結果、世の中には極端な議論が横行したり、怪しげな情報が飛び交ったりします。そして、安易に飛びついた人が被害を受けたり、無関係な人々を巻き込んで被害を大きくしてしまったりするのです。
 現代は、人々の心から「あいまいさへの耐性」が失われつつある時代なのかもしれません。しかし、人間が関わる領域において、明快な答えが出ることはそうそう多くはないはずです。むしろ明快な答えがないからこそ、人々は熱心に創意工夫し、人生は味わい深く実り豊かになるのだと思います。
 あいまいさに向き合い、安易に結論を求めず、よりよい解決に向かって努力し続ける。見たもの聞いたものを無批判に受け入れ、周囲に広げるのではなく、自分の頭でしっかり考え、取捨選択していく。それが、うわさや環境に振り回されない確かな自分をつくるのだと思います。

<月刊誌『第三文明』2015年8月号より転載>


まつだ・みさ●1968年、兵庫県生まれ。91年、東京大学文学部社会心理学専修課程卒。96年、束京大学大学院人文社会系研究科社会文化研究専攻社会情報学専門分野博士課程満期退学。東京大学社会情報研究所助手などを経て、2003年に中央大学文学部助教授、08年から現職。専攻はコミュニケーション論・メディア論。主な著作に、『うわさとは何か、ネットで変容する「最も古いメディア」』(中公新書)、『ケータイの2000年代』(共編著、東大出版会)などがある。