第3回 すべての女性に教育の機会を-大日本高等女学会を設立-
向学心のある女性に学ぶ機会を
創価大学の大学院を卒業後、母校の職員になった私は、通信教育部で7年半勤務させていただきました。創立者池田大作先生は、開学当初から通信教育部の開設を強く希望されていました。また、通信教育部開学式のメッセージでは、牧口常三郎先生が通信教育の事業に従事されていたことに言及されていました。私にとって、これらのことが、本格的に牧口先生の研究へ取り組むきっかけになったのです。
1900年(明治33年)、4年制の尋常小学校が義務教育になり、授業料が原則無償となったことから、1905年(明治38年)には、小学校の就学率は男女あわせて95.6%(女子は93.3%)に上昇しました。しかしながら、中等学校への進学率は男女あわせて4.3%(女子は1.7%)にすぎず、向学心があっても学校で学ぶことができる女性はごくわずかでした。同年の高等女学校の数は、私立を含めても100校にすぎず、通える場所にはない地域も多かったのです。
日露戦争最中の1905年(明治38年)5月28日、33歳の牧口先生は、教育の理想を求めて、女性のための通信教育を行う大日本高等女学会を設立しました。その広告は、全国110を超える新聞や雑誌に掲載されています。
大日本高等女学会設立の目的について牧口先生は、
高等女学校の設置なき地方、又は有っても家庭の事情などのため余儀なく学に就かれぬ有志の婦人の為に、親切なる通信教授を施す
ことにあると語っています。まさに、向学心があっても学ぶことができない女性のための「教室を備へざる高等女学校」を設立して、多くの女性たちに教育の機会を届けようとされたのです。
聡明で自立した女性を育む
通信教育の特色は、
具体的には、講義録『高等女学講義』が月2回家庭に郵送され、それを家事の合間などに学習します。さらに、『
牧口先生は大日本高等女学会の運営にあたるだけでなく、自らも「外国地理学」の講義録を執筆しました。その冒頭には、
ちょっこらちょいと、外国へ行って来る様な用事があるでなし、
小六ヶ 敷しい外国地名の沢山出てくる世界の地理が吾々 に何の益に立たう? とは一寸 考へるものの誰れでも、思ふところである、が、国を鎖 して一切外国の人も物も入れなかった昔しならばいざしらず、汽車あり、汽船あり、電信あり、一瞬千里ともいふべき今の世に、さりとは余 り時勢後れの言ひ草、まあ少し思ひ直して、身の囲りを注意してご覧!
と、振り仮名(原文はカタカナ)を打ち、わかりやすい話し言葉を用いて書かれています。

大日本高等女学会で毎月発行された『大家庭』の第3巻第2号(明治41年2月25日発行)
大日本高等女学会の特色の一つは、他の女性対象の通信教育にはなかった手厚い学費減免制度があることです。小学校長から推薦のあった特薦生には、入会金と月々の会費すべてを免除しています。この制度ができたのは、少年時代働きながら学んだ牧口先生の経験があったからかもしれません。
牧口先生は、講義録を送るだけでは不親切ではないかとも考えました。北海道出身の友人から、講義録を使って1週間に1回もしくは月に1回、学校に集めて懇談したら非常に効果があったという話を聞き、設立の半年後からは、毎月第3日曜日に技芸実習講話会を開催するようになりました。そこで先生は、どうやって自修をすればよいのかなどの話をしています。このほか、
このように牧口先生は、若い女性たちに学ぶ喜びを体験させていったのです。
学費無料の女芸教習所設立と半日学校制度の提唱
日露戦争後、東京の株式相場の暴落により日本全体が大不況となり、一般市民の生活は困窮しました。大日本高等女学会も例外ではなく、牧口先生が、
創立以来、ここに三年、事にあたりたる
吾等 の不敏 によりて、幾多の困難に陥り(『大家庭』第3巻第1号)
と語っているように、深刻な経営難に直面します。
それでも牧口先生は、女性に学びの機会を与えたい、女性の自立を支えたい、という強い信念を持ち続けました。先生は新たに「女芸教習所」を併設します。綿細工や裁縫・刺繡といった技能を学べる場を無料で開設し、女性たちの経済的自立を助けようとしたのです。
女芸教習所理事長の
本会は一昨々年に初めて設立になりまして、
其 当時から唯今に至ります迄、終始一貫、献身的に此事業に従事して居られましたのが牧口氏であります。同氏は、御自分の資産を傾けてまで此事業に熱心に従事せられて居られました(『大家庭』第3巻第2号)
と述べています。経営の全責任を担う牧口先生のお宅には、債権者が押しかけることもありました。このように大日本高等女学会の経営には、大変な苦労が伴ったのです。
この頃、牧口先生は、当時の学校制度が生んだひずみにも目を向けていました。誰もが学べるようになった半面、子どもたちは次々と詰め込まれる知識量に圧倒され、学校教育が本来あるべき目的(子どもたちの幸福)から外れているのではないかと危惧されたのです。女学校に通う生徒たちに目を向けると、朝から晩まで神経をすり減らしながら学んでいる現状がありました。
こうした現状を踏まえて牧口先生は、学業と家庭、あるいは将来の職業準備との両立を可能にする教育制度こそ、子どもたちの健全な発達に資するのではないかと考え、月刊誌『教育界』の座談会で「半日学校」を提言されています。
文部省での教科書編纂と『郷土科研究』の出版
牧口先生は、大日本高等女学会に全力を注ぐなかで体調を崩し、会の運営から退くことになりました。しかし、その後しばらくして、文部省で地理教科書の編纂などにたずさわることになります。
文部省在任中、牧口先生は『教授の統合中心としての郷土科研究』を書きあげます。先生は、郷土を深く理解することが、日本人としての自覚、さらには「世界民」としての視野へとつながると考えていました。また、教科ごとに分断されていた教育内容を統合的に捉えれば、子どもたちがわかりやすく学ぶことができると考えて、「郷土科」の設置を提唱しました。
当時の代表的な教育雑誌『帝国教育』は「同書は、最近教育界の話題になっている郷土科に対する系統的研究書であり、系統的で詳細である点で本書の右に出る書物はない」と高く評価しています。
この『郷土科研究』が出版される少し前、牧口先生は

四谷区麹町(現在の新宿区四谷)の三河屋における郷土会員による柳田氏の渡欧送別会(1922年5月1日)。前列一番左が牧口先生
新渡戸博士は、
君〔牧口先生〕は『人生地理学』を著して以来、地理学者として、『郷土会』の同志として、
余 の君に交はること二十余年、始終熱心なる研究者として或は地方 土俗 学の研究に、 或は山間農村の踏査 に行を倶 にしたのであった。中頃より瑣々 〔少しばかり〕冷淡の嫌 があり、同志の中に惜しむものもあった(『創価教育学体系』序文)
と述べています。また、牧口先生も、
職務上、教育方法の研究に没頭することとなり、郷土研究への積極的な取り組みは困難となった(『郷土科研究』改訂増補版、1933年刊、趣意)
と述懐しています。
この頃から牧口先生の関心は、後に『創価教育学体系』として結実する研究へと邁進していくことになりました。
<月刊『灯台』2025年7月号より転載 構成・文/上妻武夫>
連載「創価教育の源流」を学ぶ:
第1回 創価教育学を生み出した牧口常三郎の教育実践 [前編]
第2回 創価教育学を生み出した牧口常三郎の教育実践 [後編]
第3回 すべての女性に教育の機会を-大日本高等女学会を設立-
第4回 近日公開(月1本の記事を掲載いたします)

しおはら・まさゆき●1953年、富山県生まれ。創価高校・創価大学2期生。創価大学大学院法学研究科修士課程修了。その後、創価大学職員として勤務。2000年11月、前身である創価教育研究センター事務長に就任。19年4月より現職。 



