著者インタビュー『日本人はなぜ存在するか』

愛知県立大学日本文化学部歴史文化学科准教授
與那覇 潤

 著書『日本人はなぜ存在するか』で示した再帰性の観点が、ナショナリズムが台頭しつつある今の日本になぜ必要なのか。與那覇氏に話を聞いた。

――著書『日本人はなぜ存在するか』のテーマである「再帰性」の考え方はなぜ必要なのでしょうか。

 再帰性とは、「われわれは単に現実に存在するものを認識しているというより、逆に認識を通じて現実を作り出している」という視点のことです。わかりやすいように、まずは個人と世界の関係で例を出せば、夕焼けが赤く見えるのは太陽自体が赤いからなのか、私の網膜にそれを「赤く見る」性質があるからなのか。後者の観点を取るのが再帰性の立場です。
 そして私たちは日々、個人ごとにバラバラに世界を認識するだけでなく、複数名の認識が相互にかかわりあう共同現象として、社会的なものごとを作り上げています。たとえば、お互いに「僕と君は恋人どうしだ」「私たちは家族だ」と思いあうことで、カップルなり家庭なりは成立していますよね。個人の認識を押しつけるだけではストーカーになっちゃうし、もしくは相互にそういう認識を共有できなくなったら、別れて新たな関係性に入らざるを得なくなる。
 当たり前じゃないか、と思うかもしれませんが、しかし「われわれは日本人だ」になると、途端にこのしくみが見えにくくなるんですね。日本人という共同性が、相互の関係性の産物ではなく、最初から不変のかたちで存在するかのように思われてしまう。結果として、実際には自分の認識であるにすぎない「正しい日本人」イメージを、周囲にも強要してしまうことがある。恋人や家族でやったらDVになることなのに、それが「愛国心」だと勘違いされる。
 これが、ナショナリズムの魔力といわれるものです。特に日本人は、独立宣言のようなものを発して国家を「人為的」に創出するという経験が乏しかった分、日本という共同体を「自然に存在している」自明のものだと疑わない傾向がありますから。「単一民族国家」といった意識も、その表れでしょう。
 しかし、これからは自分とは違った〝自明性〟を信じている人とも、共存していくことがより求められる時代です。再帰性、つまりこの世の中には自然にありのままに存在しているもののほうが少ない、もしくは認識から一切の影響を受けない「真の現実」なるものはそもそもないのだ、という視点に一度立ってみることが、対話のための土俵を作る第一歩になると思うんですね。

――日本でのナショナリズムの台頭を、再帰性の観点ではどう捉えますか。

 長いあいだ、再帰性の観点からする〝ナショナリズム批判〟の意義は誤解されてきました。先ほどの話を「日本人だなんていうのは認識を通じて作られた存在に『すぎない』から、偽物で、価値がない」という主張に短絡してしまう人が多かったんですね。しかし、それを言ったら友人関係や恋愛関係も含めて、あらゆる人間関係が偽物になってしまう(笑)。そうではなくて、むしろその関係は「作り変えることができる」という可能性を開いてくれる点に、ものごとを再帰的な存在として捉え返すことの意義があるんです。
 最近のニュースから例を挙げれば、家族問題でしょうか。昨年、非嫡出子への相続上の差別規定を廃止する民法改正に対して、自民党のうち「ナショナリスティック」な一部の保守派が反発する一幕がありました。しかし彼らが標榜する〝伝統的な家族観〟というもの自体が、ある時代に特殊な条件のもとで成立した「日本の(あるべき)家族」についての認識であって、それを改めたら日本が全部なくなるなんてことがあるわけがない。
 保守的な政治家がよく掲げる〝伝統的な家族観〟は、実際には明治民法によって作られた、日本史上で数十年程度の生命しか持たなかった家族のイメージです。小家族のイエという生活形態が一般の農民にまで普及したのは江戸時代ですが、当時は、たとえば夫婦同姓は別に絶対の原則ではありません。近代になるとヨーロッパから一夫一婦制や家族愛イデオロギーが入ってきて、さらには教育勅語に典型的な、国家による(もとは中国原産の)儒教道徳の普及が起きる。
 つまり、本当は日本と西洋と中国の家族規範を全部ゴチャゴチャにミックスして作られたのが、明治民法下の家制度だったんですね。結果として、夫婦の間には「愛」があるはずだとか、男と女では道徳上の序列があるんだとか、あらゆるロジックを総動員して国民を画一的なモデルで、ただひとつの「家」に縛りつける体制ができた。それは決して日本に固有な家族関係の伝統でも、これから日本人が築きうる家族像のすべてでもないのです。

――ヘイトスピーチなどの排他的言動については、どう感じていますか。

 ヘイトスピーチは、ナショナリズムよりもレイシズム(人種主義)と結びつけられることが多いですが、そこにあるのは自分には理解できないもの、自分とは異なる世界の認識や解釈のすべてを「抹消」したいという欲求でしょう。その点に、周囲を自分の側の解釈へと「統合」していこうとする側面も持つナショナリズムと比べても、深刻な問題があります。
 今日の日本でヘイトスピーチの標的にされているのが、まず在日コリアンも含めた韓国・北朝鮮、次いで中国ですが、私にはそれは「冷戦体制の鬼子」にみえます。朝鮮戦争が終焉して以降の冷戦期は、一般の日本人にとって中国や朝鮮半島の情勢を「無視」しても暮らすことのできる例外的な時代だったんですね。それこそ江戸時代以来といってもよい。
 ところが冷戦の終焉後、中国の台頭や韓国の経済発展を通じて、彼らの存在を自分たちの視野から抹消できなくなり、時には日本のほうが「負けた」と感じざるを得ない局面もでてきた。それが目障りだ、もう一度消えてくれ、という鬱憤を、まき散らしているようにみえます。
 さらに深刻なのは、そういう冷戦の鬼子たち自身がしばしば同時に「冷戦を知らない子どもたち」でもあること。たとえば冷戦下の韓国がずっと軍事独裁体制で、日韓基本条約ですら国内での抗議を弾圧して結ばれたという事実を知らない。今テレビを見るとしょっちゅう大統領選をやっているし、最初から民主主義国だったんじゃないの?と思っている人が多いでしょう。だから、従軍慰安婦問題にしても「なんで今になって言うの?」としか思えない。
 前者は心情的な問題だから特効薬を考え出すのは難しいけれど、後者は純粋な知識不足ですから、ある程度は歴史の学習でカバーできます。高校では戦後史は駆け足になってしまうといわれますが、私はむしろ日本史・世界史を統合した「近現代史」、特に「二十世紀史」こそを必修にするべきだと思っています。グローバルに活躍する人材を育成するうえでも、世界の諸地域で「今に直結する時代」に何が起こっていたのかを知ることは、英語力と同等かそれ以上に重要でしょう。

――結論部では『リニューアル』という発想を提唱されていますね。

 自分の信念だけが自国の伝統だと思ってしまう政治家にしても、ネットやリアルの排外主義者にしても、日本という国の可能性が一種類しかないと思い込むから、その確信を揺るがすものを排除したくなる。そうじゃないんだと、多様な可能性に開かれた国こそが住みやすく、誇れる社会なんだ、というメッセージを込めたつもりでした。
 可能性とは、「このような理想の世界を築いていく」といった〝物語〟と呼び換えることもできますが、今は社会主義なり、それへの対抗として掲げられた自由民主主義なりといった、冷戦下では説得力を持ちえた物語の有効性が失われた時代なんですね。だからこそレイシズムのチープな物語でもウケてしまうし、チープであってもそれにすがりつかざるを得ない人もいる。
 そういう時代に、「ゴールはここだ」と指し示してそこに向かっていこうという〝大きな物語〟で夢を語るのは難しい。だとしても、というかだからこそ、少しずつ「今よりは」よくしていこうという物語のバリエーションをいかに広げていくかが、これまで以上に求められるだろうと思います。

<月刊誌『第三文明』2014年4月号より転載>

nihonjin

『日本人はなぜ存在するか』(知のトレッキング叢書)
與那覇 潤著


集英社インターナショナル
定価1,080円(税込)




よなは・じゅん●1979年生まれ。愛知県立大学日本文化学部歴史文化学科准教授。東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程修了。専門は日本近現代史。「西洋化」ではなく「中国化」「再江戸時代化」という新たな枠組みで日本史全体を描きなおした『中国化する日本』(文藝春秋)は、中国・韓国でも翻訳が刊行された。著書に『翻訳の政治学』(岩波書店)、『帝国の残影』(NTT出版)、共著に『「日本史」の終わり』(PHP研究所)、『日本の起源』(太田出版)、『史論の復権』(新潮新書)など多数。