【コラム】1万年のレッスン――〝ニッポン〟が秘める価値

ライター
青山樹人

世界を驚かせた日本人の姿

 ノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイさんは、日本で覚えた「もったいない」という言葉を、環境保護の智慧を含んだキーワード「Mottainai」として世界に発信した。
 2009年のラマダン(イスラムの断食)期間中にサウジアラビアで放映された『ハワーティル(改善)』というテレビ番組は、たちまち同国の人々を釘付けにし、シリア、ヨルダン、エジプト、イラクなど周辺のアラブ諸国でも反響を呼んだそうだ。
 この番組は、学校で生徒たちが掃除をする、時間を正確に守る、順番に並ぶ、落ちていた財布を交番に届けるといった日本人の振る舞いを、驚きをもって紹介しながら、自分たちの社会も日本を模範に〝改善〟していこうという内容だ。

 東日本大震災当時に日本で台湾の駐日経済文化代表(駐日大使に相当)を務めていた馮寄台さんは、『第三文明』(2011年10月号)のインタビューでこう語っている。

「震災に遭って日本の方々が示された秩序、互いを助け合う姿、これは他の国ではありえないものです。こんなにモラルをもって自助する社会は、他にはありません」

 あの日、東京で一緒に暮らす馮さんの令嬢も外出先で地震に遭い、連絡が取れないまま夜中の3時半に徒歩で帰宅できたそうだが、馮さんは迷いもなく在留台湾関係者の対応指揮に専念していた。「私はまったく心配しておりませんでした。テレビで東京の人々が秩序正しく帰宅している様子を見ていたからです」。
 暴動も略奪も起こさないばかりか、飢えと寒さと恐怖にさいなまれた地震直後の被災地ですら人々が秩序正しく行動し、互いを助け合い、感情を抑え、救援の手に深々と感謝を示す日本人の姿は、世界中の人々を驚かせた。

生命に刻まれた〝資源〟に光を

 内輪の視線で見れば、ずいぶんとモラルの喪失が嘆かれて久しい日本社会ではあるが、たしかにこうした国民性は世界の中では特殊なものなのだろう。
 ではいったい、私たちはどこでどうやって、このように高度なモラルや規律、他者への思いやりといった精神性を身につけたのだろうか。
 小学校などの初等教育の現場で、たしかに訓練はされる。それでも、日本人が皮膚感覚というか、ほとんど身体性ともいえる内的なものとして備えているこれらの性分や能力は、単に学校で訓練されて出来上がっているものだとはとても思えない。

 縄文文明の研究者たちは、こうした国民性が太古の時代に源流をもつものだと指摘する。
 人類はおよそ1万5千年前に狩猟採取型の旧石器時代を終え、定住して農耕牧畜を営む時代へと移っていくのだが、日本列島では定住はするけれども狩猟採取に依存するという独特の生活様式がはじまった。これが縄文文明である。そして、この縄文時代は大陸から伝わった稲作が基盤となる弥生時代まで、およそ1万年以上も持続した。
 世界史的にも類例のない定住&狩猟採取という暮らし方ができたのは、氷河期が終わって日本海にも暖流が注ぎ込み、もともと海と森が近かった日本列島が、温暖で四季の変化に富む自然の恵み豊かな場所になったからだ。
 その豊かな自然が、〝他者と分かち合い〟〝自然と共生する〟文明を可能にした。過酷な環境であれば、そのようなすぐれて人間的な精神性の高い生き方を1万年も続けることは到底できなかっただろう。

 仏教や漢字が伝わったのが、わずか1500年前であることを思うと、この1万年間のレッスンがどれほど濃密に私たちの背後に染み込んでいるか想像がつく。
 それらは生物学的なDNAとして刻まれているのか、唯識論でいう阿頼耶識(※)の生命深層に刻まれているのか、ともかく私たちの身体的な深い記憶として存在し、美的感覚や器用さ、勤勉さ、清潔好き、穏やかさといった特質として顕現してきた。

 かつて日本が世界にセールスしてきた良質な工業製品は、今や徐々にアジアの新興国にお株を奪われつつある。かといって均質な労働力は育てられても、iPhoneを発明するような型破りな天才を生み出すことに長けているわけでもない。
 けれども、一方で世界の人々が今さらながら発見し熱い視線を送り始めているのが、日本人の洗練された美的感覚や繊細な所作、日常の暮らしにある丁寧な振る舞い方なのだ。
 なぜなら、こういったものは高級車や摩天楼と違って、たかだか30年や50年の経済発展では絶対に手に入れることができないものだからだ。

 日本人は今まで、自分たちの特質を語る際にしばしば仏教や神道を引っ張り出してきた。それは一面の真実ではあろうが、自然条件や地政学を踏まえた縄文の文明をきちんと見ておかなければ、自分たちの実感ともそぐわない空虚な話になりかねない。
 私たちの生命の奥深いところに刻まれた先人たちのレッスン。その資源を、どうすれば掘り起し、世界の人々とも分かち合っていけるのか。
 自分たちの深部に思いを巡らしながら、新しい智慧を探っていきたいと思うのである。

(※)阿頼耶識(あらやしき):阿頼耶とは梵語Alaya(「蔵」の意)の音訳で、五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)や意識の奥にある七識の末那識(まなしき)よりもさらに深層にあるのが八識の阿頼耶識。輪廻転生の始まりより自身行なってきたあらゆる業が種子のように蔵められているため「蔵識」とも、仏陀(覚者)の種子が貯えられているとして、一切種子識(いっさいしゅうじしき)とも呼ばれる。


あおやま・しげと●東京都在住。雑誌や新聞紙への寄稿を中心に、ライターとして活動中。著書に『宗教は誰のものか』(鳳書院)など。