沖縄伝統空手のいま 道場拝見」タグアーカイブ

【道場拝見】第13回 上地流空手道拳優会本部(上地流)〈下〉

ジャーナリスト
柳原滋雄

毎回「自由組手」を行う

 サンチンに始まり、カンシワ、カンシュウと3つの型を終えると、新城会長が何やら個別に指示を始めた。グローブをつけて出てきたのは10人中6人の門下生たち。相手を掴めるタイプの赤と青のグローブをそれぞれ着けて、「自由組手」の時間が始まる。
 通常の稽古はサンチンで始まり、型の分解などを行って、小手鍛えを行い、最後に組手で締めるのが通常のパターンということだった。

ワン・ミニッツ!

 新城会長が時間を宣言すると、最初に白帯と緑帯の門下生がそれぞれ「1分間」向き合う。通常の競技の試合のように、片方が気合の声を鋭く発した。現役時代、組手の試合で大きな結果を出した新城会長の道場だけあって、いまも門下生の中から組手の全国大会に出場する〝猛者〟が後を絶たない。それも小学生から中学、高校、大学、国体まで年齢層も幅広い。
 上地流の実戦スタイルは、相手の攻撃を受けたままその手で相手の腕をつかみ、引っ張りながら別の手で(顔面を)叩くというのが基本パターンというが、それをそのまま全空連(全日本空手道連盟)方式の試合で使えば即〝反則〟となる。そのため本来の上地流の技法と区別する意味で、選手養成の場として稽古の中に自由組手の時間が設けられているという説明だった。 続きを読む

【道場拝見】第12回 上地流空手道拳優会本部(上地流)〈上〉

ジャーナリスト
柳原滋雄

開手のサンチンに特徴

 沖縄3大流派の1つである上地流の中にあって、県内500人を抱える「拳優会」を率いるのが新城清秀会長(しんじょう・きよひで 1951-)だ。祖父と父親が和歌山の紡績工場時代に流派創設者の上地完文(うえち・かんぶん 1877-1948)に師事し、以来、3代にわたり流派を形成した。父親の新城清優(しんじょう・せいゆう 1929-1981)が1955年、那覇市安里で最初の道場を開設し、60年に嘉手納ロータリーの中にあった前道場に移動する。そこで45年間、激しい稽古の時代が続いた。入門してくる駐留米兵を相手に稽古のたびに自由組手によるけが人が続出し、道場前に救急車が常駐する時代もあったという。

あの当時に比べて、だいぶおとなしくなっています。

 現在の道場は再開発に伴う立ち退きで、2005年に嘉手納から移転した。読谷村ながら、立地は嘉手納町に近接する場所だ。
「拳優会本部道場」の一般部(大人)の稽古は月・水・金。8月の金曜夜、取材に訪れた。道場は海辺が近い一帯のやや高台の住宅地にある。
 板張りの道場に入って最初に感じたのは、天井が高いことだった。稽古は午後7時から始まり、この日は黒帯を中心に10人の精鋭が顔をそろえた。うち外国人容貌の門弟が数人。女性も1人まじる。稽古は7時を少しすぎて始まった。

ハイ、整列。

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【道場拝見】第11回 喜舎場塾田島道場(松林流)〈下〉

ジャーナリスト
柳原滋雄

無二の親友との思い出

 彼がいなかったら(空手を)始めていなかったかもしれないですね。

 田島一雄・教士8段がそう回想するのはすでに紹介した松林流宗家2代目、長嶺高兆(ながみね・たかよし 1945-2012)との出会いだ。

 中学卒業後、高校受験で浪人した際、「補習学級」(予備校のようなもの)で一緒になった。高兆は父親と同じ那覇商業高校にいったん入学したものの途中で辞め、那覇高校を受験したが失敗し、2浪の最中だった。その後、2人は新生高校となる県立小禄(おろく)高校の1期生として入学する。高兆は学校で空手クラブを創部し、田島氏はそこには入らなかったものの、高兆の父・将真の運営する長嶺空手道場に入門した。
 浪人時代に一緒に行動するなかで、街でしばしば高兆が喧嘩する姿を傍らで見てきた。

 そのころから非常にやんちゃでした。我々何人か男友達を引き連れて、ちょっと変な奴がいたらすぐに喧嘩をしかける。彼はまったく動じない。度胸がありました。レンガ造りの古い建物があったら〝試し割り〟と称してレンガブロックを蹴って柱を崩すこともありました。そうした破壊力をまざまざと見せられて魅了され、私も空手をやってみる気になったのです。

 田島氏は、高兆は組手が強かったと述懐する。 続きを読む

【道場拝見】第10回 喜舎場塾田島道場(松林流)〈中〉

ジャーナリスト
柳原滋雄

「仙骨」と「軸」を重視する身体操法

 田島道場の技法については稽古を見学して説明を受けただけでは理解が及ばないため、田島一雄・教士8段(1947-)に、改めて那覇市内の飲食店で2時間ほど話を伺った。
 田島氏は16歳のとき、同じ高校に通っていた同級生だった親友、松林流宗家2代目にあたる長嶺高兆(ながみね・たかよし 1945-2012)の影響で長嶺道場に入門して以来、空手歴(武歴)は60年を超える。
 その空手は長嶺将真や兄弟子・高兆の指導から始まり、その後、喜舎場塾の初代・2代塾長の教えを基本に、自身のオリジナルを加えたものだ。そのため大方は新里塾長の教えと重なるものの、多少異なる部分もあると説明する。
 前回言及したように、喜舎場塾の手法においては「脱力技法」と「重心の垂直落下」がその基本となる。脱力技法は筋肉のムダな力を〝抜く〟という意味で、立ち方一つとっても筋肉を使って立たず、骨で立つという考え方だ。骨格そのもので立ち、その上でさらに「軸」の概念が不可欠の要素となる。 続きを読む

【道場拝見】第9回 喜舎場塾田島道場(松林流)〈上〉

ジャーナリスト
柳原滋雄

松林流から〝進化〟した会派

 松林流の喜舎場塾といえば、私の知る限り、沖縄の空手流派の中では最も研究熱心なグループ(会派)の一つとして位置づけられる。
「沖縄空手道松林流喜舎場塾」は、戦後の沖縄空手界を牽引した長嶺将真(ながみね・しょうしん 1907-97)のもとで三羽烏と謳われた弟子の一人、喜舎場朝啓(きしゃば・ちょうけい 1929-2000)を始祖とする会派で、独特の腰使いなどを特徴としてきた。同塾の2代目となる新里勝彦(しんざと・かつひこ 1939-)塾長は名の知られた存在だが、〝弟弟子〟にあたるのが現在、三原道場(三原公民館、水・土19時~)を運営する道場主の田島一雄・教士8段(1947-)である。
 三原道場での稽古を2度ほど見学し、技法の概要や流派の思い出を取材した。 続きを読む