日本では、あまりにも概念だけが独り歩きをする。概念は簡単に流行語のようになって、「セクシュアリティーだ」ということになったら、それはもうただ「セクシュアリティー」で、それだけがナダレのように押し寄せて来る。押し寄せて迫って来て、そしてそれは流行だから、時がたてば忘れられてしまう。だったら、そんな概念にはなんの意味もないと、私は思う。はやりすたりのある“概念”なんかよりも、「常にある“なんだか分からないもの”」という留保の方が、私にはとっても重要のように思われる。(橋本治『ぬえの名前』、岩波書店、1993年、294頁)
二分法をトランスする
生まれたときに登録された性別とは異なる性別を、生きる人、生きようとする人、表現する人。そのことをトランスジェンダーという言葉で表現することがある。前回は、たくやさんという友人にトランスの経験を聞きに行ったのだった。今回も、私はもう一人大事な友人に会いに行くことにした。トランスに関わる話にまた別の角度からじっくりと耳を傾けてみたいと思ったのである。
もちろん、10人のトランスジェンダーがいれば、10人の(あるいはそれ以上の[※1])異なった人生が浮かび上がってくるにちがいない。とはいっても、それらはおそらく全く個々別々のものということもなく、重なり合う部分も持つだろう。現在の社会が女性集団と男性集団について様々な格差[※2]や不平等を含み持っており、女性らしさと男性らしさが一人一人の生き方にいまだ大きな影響を及ぼすことも多い以上、トランスの経験も、登録された出発点が女性か男性か、移行の方向性が男性か女性か、あるいはそれ以外かによって左右される部分も大きい。 続きを読む