連載エッセー「本の楽園」 第59回 アップデートする民藝

作家
村上政彦

柳宗悦(やなぎ・むねよし)の名は知っていた。彼が提唱した民藝運動についても少しぐらいの知識はあった。しかしそれ以上の関心を惹かれることはなく、柳の著作を読むこともなかった。近年になって、例によって勘が働いて、『民藝とは何か』を読んでみた。いやー、おもしろかった。
それ以来、民藝の思想を文学に活かすことはできないか考え始めた。そこへ本書が現れた。『21世紀民藝』。柳宗悦の思想を再生して、21世紀仕様にアップデートする試みである。
柳宗悦は、「日本が近代化される明治中期以前の工藝品」を「民藝」と名づけた。民藝の思想には、二つの核がある。「用」と「下手(げて)」だ。著者も述べているが、これを通俗的に解釈すると――。

「民藝」を一義的に解釈してしまうと、「用」は単なる使用に、「下手」は単なる安価で雑多なものになってしまう。そして「ふつうのシンプルなものでよいものを日常的に使いましょう。日々の暮らしを丁寧に、美しくして、豊かさを楽しみましょう!」というふうに単純化されてしまう。

となる。でも、それではあまりにもつまらないし、表層的な受け止め方でしかない。間違いなく、柳宗悦は、ちょっと待ってくれ、というだろう。著者はその意を汲むように、まず、「用」について、こう述べる。

「用」とは、もう失われてしまった土地と結びついたものである。そして、その向こう側、その深い場所には、天然・自然がある。さらに自然の彼方には死者たちのいる浄土があって、先生(注・柳宗悦)は、浄土にまで思いを馳せていく

(※浄土について、柳は「此世を心の浄土と云ひ得ないだろうか」「地上に咲く浄き美しき蓮華を、浄土の花とは呼ぶのである」という)

 民藝の「用の美」とは、人間がすでに離床し、失ってしまった「大地」と「自然」とを、現在から逆に辿りながら、思いを馳せ、祈りを捧げることによって成り立つ美意識なのである。

また、「下手」についていう。

「用」が、現在から過去へと思いを馳せ、心を配り、祈ることであるならば、「下手」とは、その結果として、過去から現在へ、もしくは深層から表層へ響いてくる何かである。自然と人間のあいだで紡がれた長い営みによって、自然の鼓動とともに、繰り返し、繰り返し、同じことをする、同じものをつくりつづけることによって、循環し維持してきた「なくてはならないもの」、それが「下手」である。始まりの場所、ものの生まれるところ、つまり自然世界の底から、「下手」によってもたらされるのは、生命の波動、流動するものとしかいいようのない何かである。

汁を飲むために、一つの器を手にする。そうすることで、人はその器の肉体である土を通して土地と結びつき、それを生み出した天然・自然と出会う。さらに工人が繰り返し作り続けてきた器に込められた「なくてはならないもの」を受け取る。
こう見てくると、「民藝」を手にすることによって、僕らは人が本来そこにあった生命の根源に触れることができるということになる。これはただ工芸品を愛好するのとは違った行為であって、いまの時代が求めていることではないか。
著者は大学で哲学を学び、編集者を経て、塗り師となった。「民藝」を考え、語るには、得難い人物といえる。21世紀に、どのようにして「民藝」をアップデートするか――その答えの一つがここにある。
ところで、この思想をどのようして文学に活かすか? 愉しみながら考えようか。

お勧めの本:
『21世紀民藝』(赤木明登著/美術出版社)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。