連載エッセー「本の楽園」 第37回 カフカの生涯

作家
村上政彦

 ふらっと本屋や古本屋をパトロールするときと違って、図書館へ行くときは、だいたい仕事の資料を調べたり借り出したりと、目的が決まっている。それでもときには、「おっ、こんな本があったか」と目当てのものではない本を手に取ることがある。
 このあいだ図書館へ行ったとき、ふと、『カフカの生涯』という表題が眼についた。カフカは若い頃から読み親しんだ作家で、近年、マックス・ブロートの手が入っていない全集が出たのを買った。
 作品は読んでいる。でも、生涯については、詳しく知らない。著者が、僕の持っている全集の翻訳者だったこともあり、それほど厚くなかったこともあり、仕事の資料と一緒に借り出した。
 読んでみると、予想通りおもしろい。小説家として生きていくことについて、いろいろ考えさせられもする。

 カフカの祖父ヤーコプ・カフカは、チェコのヴォセク村で畜殺業を営んでいた。この村は、のちに書かれた『城』の舞台になっている。カフカは、チェコ語で「コガラス」の意味。
 父のヘルマン・カフカは、14歳で家から独立して、小間物や雑貨を売り歩く行商人になる。のちに書かれた『変身』の主人公の職業も行商人=セールスマンである。やがてヘルマンはプラハに出て、裕福な家の娘・ユーリエと結婚し、住居兼店舗を持つ。
 生まれた長男がフランツ――つまり、僕らの知っているカフカの誕生となる。フランツは当時の皇帝と同じ名だった。長じて王立のギムナジウムに学ぶ。ここは人文教育と古典語を重点にして、大学へ進む道が開かれている。
 カフカは、無口で控えめな生徒だった。このころから作家を志望するようになる。プラハ大学に進んで法学を専攻した。のちに生涯の親友となるマックス・ブロートと出会った。文章も書く博識の読書家。カフカが愛読したローベルト・ヴァザリーもフローベールも彼から教わった。
 やがてカフカは小説を書き始めた。大学を卒業するころ、すでに友人のマックス・ブロートは新進作家として認められている。後輩も世に出た。なかなか自分の作品は活字にならない。就職も決まらない。おそらく彼は焦っていたはずだ。
 田舎の行商人から身を起こして、大都市の裕福な市民に成りおおせた父は、息子が弁護士か官僚になって、社会的に上昇していくことを望んだだろう。カフカが選んだのは、半官半民の労働者傷害保険協会だった。
 カフカがこの職場を選んだのは、就業時間が短かったためだとおもう。朝8時に始業、午後2時に終業。その分、俸給は安く、たいていが副業を持っていた。彼の場合は、ほとんど稼ぎのない小説家である。
 だから、カフカは、父ヘルマンに、いいご身分だと嫌味をいわれながら、ずっと実家暮らしを続けていた。午後2時半に仕事を終えると、まっすぐ家に帰り、食事を摂って仮眠し、夜になると小説を書く。無理な生活を続けたせいで結核になるが、彼はこの病気を「みずからで招きよせた病」といった。

 評伝『カフカの生涯』は、父との確執、恋人フェリーツェとの2度の婚約破棄など、よく知られたエピソードもまじえながら、カフカという作家の人間像に迫っていく。明らかになるのは、浮世離れした小説家の姿ではなく、まっとうに世の中と渡り合っている社会人の姿だ。
 さらに、僕が興味を惹かれたのは、幻想的とおもわれる彼の作品が、実は、モデルになる人物がいたり、舞台になった土地が実在していて、現実に根を持っているところだ。
 ある人物は、こう語っている。

 カフカの『審判』『城』も、自分たちの青春の世界を集約し、組み立てたもの。

 ごく当然のように慣れ親しんだパノラマを見るようであって、どの片隅、どの町角、どんな埃っぽい廊下も、すぐにそれとわかる。

 すごく当然のことだが、あのカフカも普通に生きていた。それが実感できるのは、この評伝の功績だろう。
 生前のカフカは、マックス・ブロートをはじめ、ごく一部の人々に認められただけで、ほとんど無名だった。『カフカの生涯』の著者によれば、自作に対して冷淡だったという。本屋にあった自分の本を買い占めた伝説を、「人目に触れさせたくなかったのではないか」ともいう。
 自作に冷淡だったのは、眼の高さに手が追いつかなかったからではないか。カフカの作品が劣っているというのではない。彼の眼は、もっと高みを見ていたのではないかとおもうのだ。
 第一次世界大戦が始まって世情が騒然としていても、まるで戦争など起きていないように、小説を書くことに専念している。彼の主要作の大半は、この時期に書かれた。著者はカフカを「国内亡命者」と評する。
カフカにとっては、書くことが生きることだった。死の床でも、彼は小説の校正刷りに手を入れていたようだ。自分には書くことしかできない、という彼の入り組んだ思いは、せつないほどによく分かる。

お勧めの本:
『カフカの生涯』(池内 紀/白水Uブックス)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「猟師のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。