連載エッセー「本の楽園」 第3回 本の逆襲

作家
村上政彦

 僕はお菓子が好きで、かつて食後には必ずデザートにお菓子を食べ、危うくメタボになりかけた。そこで、1週間のうち、数日間だけお菓子の解禁日を決めて、その日を「お菓子祭り」と称することにした。
 辛いもの、甘いもの、数種類買って来て、全部の袋を開けて少しずつ味見する。妻には、ひとつずつ食べれば、といわれるのだが、やめられない。だって、いちばん愉しい瞬間なのだから。
 もうひとつの僕の愉しみ。それは注文した本が届いたときの、「味見」である。数冊の本を並べて、それぞれ少しずつページを繰って読んでみる。これがたまらない。やはり、いちばん愉しい瞬間である。本にまみれている感じが、何とも心地いいのだ。
 お菓子祭りは、ここ10年ほどの習慣だが、本の味見をするようになったのは、10代の頃からだ。僕から本を取ったら、人生の99%がなくなってしまう(あとの1%は、お菓子です)。
 そういう人間なので、出版不況といわれ、本が読まれなくなっているという世のなりゆきは、哀しい。このまま本の文化は衰えていくのか……。
 とおもっていたら、最近になって、本を取り巻く状況が少し変わってきているような兆しがある。若い世代から、本好きが現われて、さまざまな活動を始めたのだ。

 幅允孝(はば・よしたか)は、青山ブックセンターで書店員として働き、『ポパイ』『ブルータス』の編集長も務めた石川次郎の事務所を経て、ブックディレクターとして独立した。
 ブックディレクターという名称は、まだあまり馴染がない。それもそのはずで、多分、幅が本邦初ではないか。では、海外にはあるのかというと、やはり、聞いたことがない。なにをするのか。僕の印象を一言でいうなら、「本の伝道師」である。

人が本屋に来ないなら、人がいる場所に本が出ていくしかない。

本を読むこと自体が目的ではない。その読書が、どう自らの日々に作用し、いかに面白可笑しく毎日を過ごせるかの方が重要

という幅の仕事を、よく表しているのは、大阪の千里リハビリテーション病院の選書だろう。
『本の声を聴け ブックディレクター幅允孝の仕事』は、丹念に取材してその様子を再現している。
 院長から、「脳溢血のリハビリに効く本を集めたい」と依頼を受けた幅は、医師、入院患者などにインタビューを行って試行錯誤を繰り返す。脳疾患を患った入院患者は、時間があっても、『三国志』のような長篇小説を読むのは負担になる。
 そこで患者の記憶を呼び起こすタイガースの写真集や大阪万博の公式写真集、ページを捲る作業がリハビリに効果のあるフリップブック(パラパラ漫画)などを揃えてライブラリーをつくっていった。幅は、この経験を活かして、『つかう本』というリハビリに使える本を出版もした。
 ブックディレクターの仕事とは、「本棚の編集」なのだ。幅はほかにも空港やカフェなどで仕事をする。どのような本棚をつくっているのか。それを知るには、『幅書店の88冊 あとは血となれ、肉となれ。』『本なんて読まなくたっていいのだけれど、』を見るといい。これは書評集なので、配列の具合も含めて、彼のつくる本棚が再現されているといえるかもしれない。

『幅書店88冊――』の冒頭から、少し抜き出してみる。
『追憶のハルマゲドン』(カート・ヴォネガット)
『The Private World of Yves Saint Laureut & Pierre Berge』(ロバート・マーフィー/写真:イヴァン・テレスチェンコ)
『闘牛』(パブロ・ピカソ)
『酒肴酒』(吉田健一)
『終わりと始まり』(ヴィスワヴァ・シンボルスカ)
『人間の土地』(サン=テグジュペリ)
『父の詫び状』(向田邦子)
『もやしもん』(石川雅之)
『砂の女』(安倍公房)
――小説、写真集、エッセー集、詩集、コミックなど、どれも面白そうだ。僕なら、この本棚の前に佇んで何時間でも過ごせる。
 本は、常に人との出会いを求めている。その、かそけき声を聴き取って、しかるべき読み手のもとへ本を届けることが、幅の仕事といっていい。

 幅とほぼ同世代の、内沼晋太郎の肩書はブックコーディネーター。こちらも、あまり馴染がない。彼が本邦初ではないか(間違っていたらごめんなさい)。内沼は外資系の企業に勤めたあと、やはり、書店で働き、のちに独立している。
『本の逆襲』は、表題も挑発的だが、内容も挑発的だ。出版業界の未来は暗いが、

「本の未来」に至ってはむしろ明るく、可能性の海が広がっている。

という。内沼は、商品のカタログ、ツイッターの呟き、トークショー、飲み会の人選を考えることまで、本である、という。

本はもはや定義できないし、定義する必要がない。本はすべてのコンテンツとコミュニケーションを飲み込んで、領域を横断して拡張していく。

 そうであるなら、本は滅びない。
 とはいっても、全国に1万4000店ほど(2012年現在)ある書店は、1日に1軒の割合で消えていくらしい。内沼は、そういう状況を覆したいとおもっている。彼が興味深いのは、幅よりも原理的なアプローチで本の伝道をしつつ、街の小さな書店を経営していることだ。
「これからの街の本屋」である『B&B』(ブック・アンド・ビールの意味だそうです)は、毎日イベントを催し、ビールを飲みながら本を手にできて、家具も買える。さまざまことをやるのは、新刊書店が生き残っていくためには、複数の収益源を確保しないといけないという考えからだ。彼は新しいビジネスモデルを模索してもいる。

 幅と内沼に共通するのは、本の新しい可能性を開こうとしていることだ。内沼も幅と同じように企業などから選書の注文を受ける。彼らはブランディングに本を活用しているという。なぜ、そういう状況が生じたのかといえば、本の置かれている文脈が変わったのだとおもう。
 昔、本が生まれたとき、それは高度な知と技術の集積体だった。本は一部の特権的な人々の所有物だった。当時、本はどこか聖なる背光(アウラ)をまとっていた。時代がくだって、紙が発明され、印刷技術が発達し、人々の識字率が向上するにともなって、本は学びのためのツールとして、あるいは娯楽のメディアとして、ごく身近な日用品となった。ほぼ背光(アウラ)は消えた。
 それは少し前まで続いていた。ところが近年になって、ちょっと本の置かれている文脈がずれてきた。皮肉なことに、本は読まれなくなったせいで、かつてまとっていた背光(アウラ)を取り戻しつつあるのだ。幅と内沼の仕事は、この状況と密接に関わっている。
 これもまた皮肉なことである。本が日用品に戻れば、2人の役割の重みは相対的に軽くなるからだ。でも、多分、そうはならないだろう。
 幅と内沼の仕事を見ていると、本には、新しい未来があるとおもえる。それは、僕のような本好きには、とても愉しいことだ。
『あなたも「本屋に」』という一文で、『本の逆襲』は締めくくられる。

「本屋」は「空間」ではなく「人」であり「媒介者」のことである。

 2人のような新しい本屋が、もっと増えてくれればいい。

お勧めの本:
『本の声を聴け ブックディレクター幅允孝の仕事』(高瀬毅/文芸春秋)
『幅書店の88冊 あとは血となれ、肉となれ。』(幅允孝/マガジンハウス)
『本なんて読まなくたっていいのだけれど、』(幅允孝/晶文社)
『本の逆襲』(内沼晋太郎/朝日出版社)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「猟師のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。