書評『アートの力』――「新しい実在論」からがアートの本質を考える

ライター
小林芳雄

 著者であるマルクス・ガブリエルは、ドイツの大学史上、最年少で哲学教授に就任したことで話題になった。「天才」や「哲学界のロックスター」としてマスメディアで取り上げられることも多く、インタビューをまとめた書籍やテレビ番組も放送され話題を呼んだ。
 本書『アートの力』は「アートとは何か?」という問題に哲学的に取り組んだものである。彫刻や映画、文学などさまざまな実例を挙げ、「新しい実在論」の立場からアートの本質を考える野心的な試みである。

私はここで、美的構築主義の暗黙の諸前提に代えて、ラディカルに異なる代案を提示したい。その代案とは、新しい実在論を芸術哲学に応用すること、つまり新らしい美的実在論を考えることだ。(本書48ページ)

現代の芸術哲学の主流=美的構築主義

 現代、美術哲学の主流となっている考え方の前提には根本的な誤りがある。それはアートの価値は観察者の目に宿るというものだ。これによれば、芸術作品を鑑賞し美しいと感じる経験は対象となる美術作品から生み出されるものではなく、私たちの心によって構築されたものになる。こうした考え方をガブリエルは美的構築主義と名づけている
 さらにこの立場を突き詰めていくと現代的ニヒリズム(虚無主義)に陥る。現代的ニヒリズムというと難しく聞こえるが、ようするに「何でもあり」という考え方だ。芸術作品は私たちの心によって作り上げられたものならば、何が芸術は単なる好みの問題で、科学的に考えるならば、現実にあるのは真空中の素粒子の集まりだけだ、という極端な考え方に行き着いてしまう。
 ここから美術作品の価値は作品それ自体によってではなく、批評家や美術史家、さらにはバイヤーなど作品を取り巻く環境「アートワールド」によって作り出されると考える哲学者までいるという。

「新しい実在論」を理解するキーワード「意味の場」とは

私たちが対象を知覚できるのは、その対象と同じ領域に存在しているからにほかならない。私の哲学用語で言うなら、同じ意味の場に存在しているということだ。(本書59ページ)

意味の場は無限にある。対象を見る無限のやり方があるのだ。そのひとつの理由は、私たちが現実をあれこれの仕方で眺めるからだが、単にそれだけではない。現実はそれ自体無限に複雑である。(本書60ページ)

 美的構築主義は、一方に精神を、他方に外界を切り分ける。環境と私たちの心はまったく別々に存在すると考えている。その点に問題がある。そこでは世界から人間という要素がすっぽりと抜け落ちてしまっている。
 むしろ彫刻や絵画にせよ、文学作品にせよ、私たちと対象との関わり合いのなかで存在している。そしうた対象との関係性を「解釈に開かれた意味の場」と名づける。対象との関わり方から意味の場は生まれる。それは無限に存在し、そこにあらわれるものは実在するという。
 科学や経済統計的に還元できるような唯一の世界は存在しない。世界は多元的で無限に複雑な現実から成り立つと彼は考えている。

アートの本質とは

 こうした「新しい実在論」の立場からするとアートの本質や「意味の場」の特徴ははどのようなものであろうか。彼は面白いたとえ話から議論を展開していく。

《考える人》によって表現された「考える」という行為は、実のところ、そのブロンズ製のオブジェと鑑賞者の間に生じている関係そのものである。(中略)彫像を解釈するやいなや、私たちが《考える人》になるのだ。(本書81ページ)

 アートの本質のひとつは、鑑賞者に対して「この作品は何を意味しているのだろうか?」と強力に解釈を促す点にあるという。また作品同士はどれも異なっており、それぞれの作品が固有の意味を持っている。さらにその意味を解釈する人によって成り立つので、制作者自身からも独立しているという。本書で何度も繰り返されているフレーズを使えば「アートはラディカルに自律している」のであり、自分を存在させるために私たちを作品の参加者に変えてしまうような力を持った「絶対権力」なのである。人類の歴史がアート作品と共にあったのは、こうした強い力を有しているからであるとガブリエルは考えている。
 アートは強い力をもっているので誤用される恐れもある。
 例えば芸術的な人生という考え方があるが、こうした生き方は必ず不道徳や悪に行き着いてしまうという。その理由は、アート作品はそれぞれ独立しているのに対して人間は普遍的な人間性に基盤を置いてこそ成り立つ存在だからだ。個性や違いだけを強調することは人間性を破壊する行為につながりかねない。さらに法律や政治も普遍的人間性や道徳に関係したものであり、そうした領域に美学を持ち込んではならないと厳しく批判している。
 本書はあまり難解な用語は使われていないが、哲学書であるだけに内容はむずかしい。しかし展開されている議論をゆっくり消化していけば、アートに対する理解だけでなく、現代の哲学的潮流への理解も格段と深まるに違いない。マルクス・ガブリエルの名前だけ知っていて学説を知らない人、さらには美術や哲学に興味がある人に、ぜひ手に取ってほしい一冊である。

『アートの力』
(マルクス・ガブリエル著/大池惚太郎訳/堀之内出版/2023年4月28日刊行)


こばやし・よしお●1975年生まれ、東京都出身。機関紙作成、ポータルサイト等での勤務を経て、現在はライター。趣味はスポーツ観戦。