書評『よみがえる戦略的思考』――希代のインテリジェンス・オフィサーからの警告

ライター
小林芳雄

「価値の体系」「利益の体系」「力の体系」

 昨年(2022年)、コロナウイルスによるパンデミックが収束していない状況下で、ロシアによるウクライナへの侵攻は世界の人々を震撼させた。その影響は広範囲に及び、エネルギーや食糧の供給が危ぶまれるなど複合的な危機を生み出している。勃発から一年がたち終戦の気配すらなく、長期戦の様相すら呈している。こうした危機の原因はどこあるのか、どうすればこの状況から抜け出すことができるのだろうか。本書は元外務省主任分析官でロシア情勢に通暁したインテリジェンス・オフィサー、作家の佐藤優氏による優れたウクライナ危機の分析書である。

国際政治においては、「価値の体系」「利益の体系」「力の体系」という三つの要素がきわめて重要だ。国際関係とは、故・高坂正堯(こうさか・まさたか)氏が唱えたようにこの三要素が複雑に絡みあった動的体系であるからだ。

 佐藤氏によれば、「価値の体系」「利益の体系」「力の体系」のどれか一つの体系が肥大化すれば、国際政治は機能不全に陥ってしまうという。本書は、この三要素を踏まえ、ウクライナ戦争をめぐる日本と世界のあり方を多角的に分析し、現下の危機を抜け出すために必要な戦略的思考をよみがえらせることを試みている。新聞や学術書はもとより、ロシア政治討論番組『グレートゲーム』やゼレンスキー大統領が主演したドラマ『大統領の僕』等々を徹底して読み解き、分析する。そこから浮かびあがってくるのは、アメリカに「管理された戦争」というウクライナ戦争の知られざる側面だ。

私は、この戦争を「管理された戦争」と呼んでいる。ウクライナ軍の戦闘が、アメリカによって管理されているのだ。

 もともとウクライナは国家統合すら危うく、財政基盤は破綻寸前であり、自前で戦争継続することが難しい状態にあった。ロシアの勢力拡大、さらには第三次世界大戦をも望まないアメリカは、武器と戦費だけを供与し、戦火がウクライナ国内で収まるように、ウクライナ人に代理戦争をさせている。これがアメリカによる「管理された戦争」である。現在、アメリカは自国の大義を守るために、他国民に血を流させている。そこで苦しむのはウクライナの無辜の民衆だ。こうしたシニカルな状態で行われている戦争は、一刻も早く停戦するべきである、と佐藤氏は強く訴える。

憂慮すべき「価値の体系」の肥大化

 しかし日本の有識者や論壇人の多くは、ウクライナが侵攻してきたロシアに対して勝利するという〝必勝の信念〟に基づいて情報を発信しており、「管理された戦争」という側面を伝えることはない。それはなぜだろうか。佐藤氏はその背景にあるのは、「自由」対「独裁」、「民主主義」対「権威主義」という、「価値の体系」の肥大化による単純な二項対立の図式があるとし、その危険性を指摘する。
 本書で紹介されている、日米開戦前夜の東條英機首相兼陸相と重臣の若槻礼次郎との事例は興味深い。

 東條は日本にとって重要な「価値」に依って対米戦争やむなしと主張し、若槻は自国の「力」を冷静に見極めて、不面目であっても対米開戦に反対した。しかし、肥大した「価値」の体系が「力」の体系を抑え、1941年12月8日を迎える。当時、戦争や事変のたびに部数を伸ばした新聞各紙、知識人、世論も「価値」の体系を肥大させていた。その結果、日本は壊滅的な敗北を喫した。

 第二次世界大戦当時、日本では「大東亜共栄圏」や「八紘一宇」という「価値の体系」が肥大化していた。それが「利益の体系」と「力の体系」を押さえ込み、無謀な日米開戦を招いてしまった。その結果、敗戦の憂き目にあい、多くの犠牲者を生んだ。当時と今の日本の置かれた状況は極めて似た構図にあり、現在も日本の有識者や論壇人の多くはロシアから発信される情報をまともに分析しようとしない。このままでは戦前と同じ歩みを辿る可能性がある、と佐藤氏は警鐘を鳴らす。

軍拡が進む時代だからこそ核廃絶の潮流を

「価値の体系」の肥大化によって、現在の日本では安全保障や軍拡に関する議論が熱を帯びている。しかし論じている人たちの多くは、その大半はあたかもシュミュレーションゲームで遊んでいるかのように、戦争を論じ、武器や兵器を論じているもので、戦争のリアリティーをわからないものか、単に勇ましいことだけを言う軽佻浮薄なものばかりだ。こした状況下で、むしろ重要なのは核禁止条約締結の流れを作り出すことだと佐藤氏は言う。

 核兵器は絶対悪と言っていいと思います。もちろん私も元外交官ですから、抑止という考え方は分かります。しかし、それが必ずしも機能するかということは怪しい。そうした中で、核兵器禁止条約の発効によって、物理的に核兵器そのものをなくしていく方向へもう一歩進むということは非常に重要だと思います。

 人類の生存権を奪いかねない核兵器の存在は絶対悪である。しかし軍拡が進む現在において、核戦争の危険性は高まっている。突発的な地域紛争が、世界を破滅に導く可能性がある。そうした時代であるからこそ核兵器そのものをなくしていく努力を怠ってはならないという著者の指摘は極めて重い。戦略的思考をよみがえらせ、核なき時代を実現していくことこそ、現在の政治にもっとも求められていることではないだろうか。

『よみがえる戦略的思考 ウクライナ戦争で見る「動的体系」』
(佐藤優著/朝日新書/2022年10月30日発売)

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こばやし・よしお●1975年生まれ、東京都出身。機関紙作成、ポータルサイト等での勤務を経て、現在はライター。趣味はスポーツ観戦。