連載エッセー「本の楽園」 第133回 優しい語り手

作家
村上政彦

 オルガ・トカルチュクは、2018年度のノーベル文学賞を受けたポーランドの女性作家だ。僕はそれまで彼女の存在を知らなかった。僕の目配りが悪いこともあるのだろうが、それより世界は広くて、まだまだすぐれた未知の作家が多いというほうが正しいだろう。
 もう、ずいぶん前に安部公房がテレビの番組で、エリアス・カネッティがノーベル文学賞を受けるまで知らなかった、自分の不明を恥じる、と述べていたことがあって、彼ほどの作家でも、そうなんだ、とおもった。
 だから、僕がオルガ・トカルチュクを知らなかったことは、当然、と開き直っておこう。しかし、そのまま読まないのは、作家としては怠慢なので、さっそく、邦訳のある本を取り寄せた。
 ひとつは、ノーベル文学賞の記念講演を含む講演集、『優しい語り手』。もうひとつは、トカルチュクの文名を高めた小説、『逃亡派』だ。小説のほうは長篇なので、少し先の愉しみに取っておくことにして、まず、講演集を読んでみる。

世界は織物です。わたしたちは毎日大きな織機で、情報や議論や映画や本や噂話や小話(オネクドート)を織っています。(中略)この物語が変わるとき、世界は変わる。そういう意味で、世界は言葉でできています

 つまり、語られなければ世界は消えていく。続けて、トカルチュクは、いまの僕らには、僕らの世界を語る、言葉やメタファや物語が足りない、と嘆く。

わたしたちには、世界を語るあたらしい方法が欠けているのです

 一方で盛んに製造され、流通している物語に、「フェイクニュース」がある。この新しい物語は、フィクションの力を奪ってしまった。この本の脚注には、こうある。

アリストテレスによれば、「起こりうるようなこと」(=虚構)を語るのが詩人であり、まさにそうした虚構を通して「普遍的な事柄」が語られる。そうした意味では虚構とは、「事実」ではないが、「真実」である。(アリストテレス『詩学』三浦洋訳)

 このところ映画でも、実話を基にしていることをアピールした作品が多い。文学では、ノンフィクションが隆盛だ。現在の世界を語る新しい方法を文学が持たず、フィクションの力が衰えているとしたら、これは小説にとって危機的な状況ではないか。
 そこでトカルチュクは、ずっと新しい物語の基礎を見つけることは可能なのかを考えてきた。

普遍的で、全体的で、すべてを含み、自然に根差していて、豊かに状況を織り込み、同時にわかりやすい、そんな物語の基礎を

 そして、彼女は「四人称」の語り手を構想する。

みずからのうちに登場人物それぞれの視点を含み、さらに各人の視野を踏み越えて、より多く、よりひろく見ることのできる、時間だって無視できる、そんな語り手

 僕はそんな語り手の存在を考えたこともない。果たしてそれは可能なのか? トカルチュクは、トーマス・マンの作品を示して、そこに新しい種類の音楽を創造する音楽家のイメージを描いたことに注目する。

存在するかもしれないものへの予兆を与えること。そうすることで、それを想像可能なものにすること

 トカルチュクは、それが芸術家の役割ではないか、という。実は、『逃亡派』という長篇小説は、その実作の試みであるらしい。先の愉しみに取っておこうとおもったが、これは小説家としては、読まずにはいられない。
 というわけで、僕は、『逃亡派』を読み始めた。ここには、僕らの現在の世界を語り尽くす、新しい視点、物語はあるのだろうか? それは、どういうものだろうか? 読者のみなさん、読み終えたら報告します。

お勧め本:
『優しい語り手』(オルガ・トカルチュク著、小椋彩・久山宏一訳/岩波書店)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。