連載エッセー「本の楽園」 第129回 読まされてしまった物語

作家
村上政彦

『弱さの思想』、『雑の思想』に続く『あいだの思想』を取り上げるつもりが、まんまと読まされてしまった本があるので、先にそれを取り上げたい。
 僕は野球少年だった。小学校に入る前後は、少し空き地があると、三角ベースで遊んだ。これは、ホーム、一塁、二塁だけでやる野球で、ゴムボールを使い、手で打つ。選手はひとつのチームで数人だから、すぐゲームが成立する。陽が暮れてボールが見えなくなるまで、夢中で走り回っていたものだ。
 小学校の高学年になると、誰もがマイ・バット、マイ・グローブを持っていた。特にチームをつくるわけではないのだが、いつのまにか選手が集まって、野球が始まった。王・長嶋が憧れのスターで、僕の周りはみな、巨人のファンだった。
 中学に進むと、当然ながら野球部に入った。当時、僕の中学は荒れていて、なかでも野球部は「不良」の集まりだったようで、部活の初日に教室へ押し込められて、これまで野球部がどんなに悪かったか、これからはそうならないように、びしびしやる、となぜか生活指導の教師に説教をされた。
 翌日からは普通に野球の練習が始まったのだが、僕は途中で体の成長期に患う膝の病気になって退部した。それでも野球への関心はあって、TVでプロ野球の中継があると、必ず、観ていた。
 プロ野球の解説者でおもしろかったのは、往年の名投手・金田正一だった。ゲームが緊迫して、アナウンサーが、「金田さん、ここはどう攻めますか?」と投手がどう出るかを訊かれ、「ドーンといけ、ドーンと」。解説でも何でもない。腹を抱えた。
 もうひとり、やはり往年の名投手・江夏豊。スポーツ・ニュースで、新しいシーズンの注目の選手を訊ねられ、「僕は××選手がいくとおもいますね」。「ほう、その理由は?」。「彼は家を建てましたからね。頑張りますよ」。これにも腹を抱えた。
 プロ野球の名投手は、ものを考えていないのか? そうではない。僕らとは、頭の使い方が違うのだ。ずっと気になっていたノンフィクション「江夏の21球」を読んだ。いや、読まされてしまった。
 1979年の日本シリーズは、江夏の所属する広島カープと近鉄バファローズが対戦した。3勝3敗。優勝がかかった第7戦で、江夏は7回からリリーフに投入された。4対3の、広島が1点リードの場面で迎えた9回裏の攻防を描いたのが、「江夏の21球」だ。
 江夏の投げる一球が、どれだけ緻密に考え抜かれたボールなのかを、作者の山際淳司は描いていく。野球は心理戦でもある。投手と打者の、相手が何を考えているかの読み合いだ。そのとき江夏は、ノー・アウト三塁から、フォアボールでノー・アウト一、三塁と追いつめられた。
 ベンチが動く。ブルペンで交代の投手が投球練習を始めたのだ。江夏はそれを見て、俺は信頼されていないのか、と複雑な心境になる。それでも窮地をしのがねばならない。一塁ランナーは二塁へ盗塁。広島ベンチは満塁策をとる。ノー・アウト満塁。
 ここからが江夏の凄いところだ。まず、次の打者を三振に打ち取る。ワン・アウト。その次の打者のスクイズを見破って外し、ホームに走り込んだ三塁ランナーを殺す。ツー・アウト。
 そして、江夏は最後の勝負に出た。内側に低く沈むカーブを投げ、打者は三振。これが9回裏に江夏が投げた21球目のボールだった。広島カープは優勝を決めた。監督の胴上げが終わって、ベンチに戻った江夏は涙を流した。
 と、ここまで一気に読まされてしまった。「江夏の21球」のことは知ってはいたが、読んだことがなかった。これが山際淳司のデビュー作だという。うまい。
 その後、彼は、「スローカーブを、もう一球」で、第8回日本ノンフィクションを受けた。47歳でなくなったことが惜しまれる。僕もスポーツをテーマにしたコラムを連載したことがあるが、素直に山際淳司を称賛しよう。

参考文献:
『スローカーブを、もう一球』(山際淳司著/角川書店)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。