宗教への偏狭な制約は、憲法の趣旨に合致せず

政治評論家
森田 実

宗教的信条をもって人生を生きてきた

私は、誕生日を迎えると80歳となります。物心ついて以来、人智を超えた崇高なものへの畏敬の念を抱いて生きてきた気がします。墓参りや故人の命日には寺院での法要を行ったり、地域の祭礼に敬虔な気持ちで参加することなどを日常生活のなかで積み重ねてきました。
そこでは、宗教的な意義を厳密に理解していたわけでなく、祖先への感謝、天への祈りという気持ちを自然なかたちで抱いてきたのだと思います。
さらに、学問を志し、自然科学、社会科学をとおして、人間の科学思想を探求する過程において、さまざまな考えをもつようになりました。そこで宗教的信条というべきものが形成されていたと思うのです。
もし、私の周りに熱心な宗教家の存在があったとするなら、その方を人生の師として生きる道を選択したかもしれません。若き日に自然科学を学問領域として選んだためか、そうした師に巡りあう機会はありませんでした。
それでも自分なりに仏典に触れ、聖書にも接し、思想家の本をひもとき、いまだ整理はされていないものの、漠とした統一体として宗教的な思考性が身についたように感じています。

宗教に巡りあえる人生は幸福である

私における宗教的な考え方の基盤にあるのは、おそらく道徳律ではなかろうかと考えています。仏教、儒教、道教、キリスト教、さらにはイスラム教など、そのいずれにおいても、道徳律の側面では共通した部分が骨格となっています。
青春時代に接した文学で強く心に残っているのが「人類は、未だかつて宗教なしに生きてこなかったし、また生きていけない」というトルストイの言葉です。
シュバイツァー博士も「あらゆる価値ある働きは信仰に基づいた行為である」と述べています。
動揺しない宗教思想、哲学を自らの根底にもっている人は、常に立派な生き方をしていたし、私などは絶えず追い越されていると実感したものです。
さらには、獄中において耐え、闘い抜いた人たちを見ても、信念を貫き通したのは、宗教をもった人が圧倒的に多かったことが強く印象に残っています。
人生において宗教は絶対に必要であり、その宗教に巡りあえた人は幸せであると痛感しております。
これは、政治家においても顕著にいえることです。たとえば、大平正芳元首相は、学生時代に洗礼を受けた、敬虔なキリスト教徒で、政治家としても信念をもった生き方を貫きました。
私は、戦後日本の政治家の評伝を数多く執筆しているのですが、ひとかどの政治家は、必ず根底に宗教的信念をもち、何らかのかたちで信仰をしているものです。その信仰心の総和というものは、大いなるもの、人間が把握しかねる存在、科学や合理主義では割り切れないものに対して畏敬の念をもつことができることにつながります。じつは、そこに謙虚さが生まれ、世のため人のために努力する政治家でありえるのです。
宗教のもつ基本的な要素として共通するものは、人類愛であり、人を愛することは、平和につながります。そうした人物こそが政治に携わる資格があると思います。

宗教的信念貫く政治家こそいでよ

政治家を志す人に、もっとも読んでほしいのが、マックス・ウェーバーの『職業としての政治』です。政治家の資質として欠かせないものとして、「情熱、洞察力そして社会的責任感」をあげ、「さらに力あるリーダーとなるために忍耐力が必要である」とウェーバーは述べています。彼は人類愛をもっていること、すなわち宗教的信念を有していることを前提にして、この歴史に残る名言を発信したのです。
私が思うには、政治にあたる人間にとって、絶対に欠かせないものが、世の中にたいする謙虚さです。その謙虚さがないと、政治権力を握ったとき、権力の暴走にブレーキをかけられなくなるのです。これは国民を不幸にします。
政治権力は魔力を包含しているゆえに、本来、見えるべきものが見えなくなり、国民のための政治を志したはずの政治家が、まったく逆方向に暴走していることに気づかなくなってしまうことを歴史が証明しています。愚かな権力者の醜悪な姿がさらされるのが常でした。
かりに政治権力を握ったとしたら、何よりもまず自身の揺るぎない宗教的信念を貫き、どこまでも国民のためという原点を胸に刻み政治にあたることのできる人が偉大な政治家といえるでしょう。

憲法第19条の精神を基本に考えるべき

さて、わが国の政治における不幸の一つは、1930年代後半において軍部の若手が主導権を握り、天皇を極度に利用した政治手法をとったことにあります。日本は当時、天皇を神格化した軍国主義に突き進んでしまったのです。
第二次世界大戦後、アメリカの連合国軍総司令部(GHQ)は、このことを重視しました。軍国主義的な思想が日本人の根底にあるとみたのです。このため、日本が再び天皇を神格化し同じことを繰り返す恐れがあるとGHQは判断したのです。
日本の歴史において、きわめて特異な時代であったにもかかわらず、GHQは、軍国主義・国家神道による過ちを過大に見立てました。そして、いかなるかたちでも、宗教の政治への関与は排除する道筋づくりにのみ腐心したのです。
実際には、わが国においては、宗教は権力に対峙する側に立つことのほうが多く、古来、権力の暴走を抑制する働きを担ってきたのです。しかし、GHQの抱いていたユダヤ教的・キリスト教的な感覚から、日本の政治と宗教の関係を徹底的に分断しようとし、国家神道の解体へと進みました。そのことが、日本国憲法に宗教と政治の分離というかたちで示され、戦後の政治体制に大きな影響を与えてきました。
いまなお政治と宗教の論議が絶えないのもこのためだと思います。これは戦後政治が引きずる〝ひずみ〟の一つです。
私は、率直にいって、宗教者および宗教団体と政治活動との関係については、憲法第19条に則って考えるべきだと思います。19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という精神を重視すべきです。宗教者(宗教団体)に偏狭な制約を課すことは、憲法本来の趣旨に合致しないと考えるからです。

<月刊誌『第三文明』2012年4月号より転載>


もりた・みのる●政治評論家。1932年、静岡県伊東市生まれ。東京大学工学部卒業。日本評論社出版部長、『経済セミナー』編集長などを経て、1973年に政治評論家として独立。以後、テレビ、ラジオ、講演、著作などで幅広く活動している。著書に『建設産業復興論』(日刊建設工業新聞社)、『政治大恐慌 悪夢の政権交代』(ビジネス社)、『崩壊前夜 日本の危機』(日本文芸社)、『公共事業必要論』(日本評論社)、『自民党の終焉 民主党が政権をとる日』(角川SSC新書)、『森田実の言わねばならぬ 名言123選』(第三文明社)など多数。公式Facebook