『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第64回 正修止観章㉔

[3]「2. 広く解す」㉒

(9)十乗観法を明かす⑪

 ③不可思議境とは何か(9)

(7)化他の境を明かす①

 「不可思議境を明かす」段は、七段から構成されているが、今回はその第三段の「化他の境を明かす」から説明する。
 前段の「自行の境を明かす」の結論部分は、一念三千については、言語表現の方法はなくなり、心の働く範囲は消滅するので、思議を超えた対象界と名づけられるというものであった。しかし、言葉も心も超えて表現できない(不可思議)というばかりでは、他者を教化することはできないので、四悉檀という理由があれば、さまざまに説くことができることを、『摩訶止観』は、

 『大経』に云わく、「生生も説く可からず、乃至、不生不生も説く可からず。因縁有るが故に、亦た説くことを得可し」と。四悉檀の因縁を謂うなり。四句は冥寂(みょうじゃく)なりと雖も、慈悲もて憐愍(れんみん)して、名相無き中に於いて、名相を仮りて説く。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、582-584頁)

と示している。 続きを読む

書評『ネットリンチが当たり前の社会はどうなるのか?』――忍び寄る全体主義の罠に警鐘をならす

ライター
小林芳雄

旧統一教会とホスト問題の共通点

 著者は、政治思想やドイツ文学を専門とする研究者で、現在は金沢大学の教授を務めている。また難解な古典を分かりやすく読み解くことでも定評がある。本書は2020年から2024年まで雑誌に不定期に掲載していた論考をまとめたものだ。
 本書が執筆された4年間は、激動の時代であった。新型コロナウイルスの世界的な流行から始まり、安倍元首相の暗殺や旧統一教会問題など、大きな問題が次から次へと噴出していた時期である。それらの問題に対して、著者は政治哲学の古典や現代思想をふまえた独自の着眼点から切り込んでいる。

 政治を巻き込んで国を挙げての大騒動に発展した、今年(二〇二三年)の二大社会問題といえば、統一教会問題とホスト問題であろう。宗教と風俗という全く異質な領域に属するように思える両者だが、実は、一番中核にある問題は共通している。(本書44ページ、本文ママ)

 旧統一教会とホスト売掛金問題は一見すると関係のない問題に思えるが、個人の「自由意志」「自己決定権」の問題であるという点では共通している。さらに、被害者はまともな判断ができない状態に置かれマインドコントロール(MC)され、多額の金銭を支払ってしまったとする点も同じである。だがマインドコントロールには学術的な定義がない。こうした曖昧な言葉をもとに判断の正常・異常を決めてしまうと、都合の良い時にマインドコントロールを持ち出して契約の無効を訴えることが可能になってしまう。
 宗教や風俗業に対する偏見も共通しているのではないか、と著者はさらに指摘する。両者に共通するのは経済的合理性とは違う行動原理を持つ点だ。こうした人たちは合理的判断のできない下等な人間だと、多くの日本人はどこかで思っていないだろうか。 続きを読む

芥川賞を読む 第44回 『時が滲む朝』楊逸

文筆家
水上修一

自由と民主化を求める中国青年の青春群像

楊逸(ヤン・イー)著/第139回芥川賞受賞作(2008年上半期)

読み手を惹きつける題材

 中国ハルビン市出身の作家・楊逸。日本語以外の言語を母語とする作家として史上初となる受賞が話題を集めた「時が滲む朝」。ところどころに違和感を覚える日本語表現があったとしても、おもしろく読むことができたのは、ひとえにその題材によるものだろう。
 自由と民主化を求める中国の若者たちが、天安門事件で人生の挫折を味わう青春群像は、自らの内側にばかり意識が向きがちな今の政治的に無関心な多くの日本人からすれば、極めてスリリングだし、国のために社会変革を求めるその純粋さはある意味新鮮に映る。だからこそ、次はどうなるのだろうと想像しながらページをめくってしまう。
 この作品を推す選考委員の多くが指摘していたのが「書きたいこと」のある強みである。池澤夏樹は、

ここには書きたいという意欲がある。文学は自分のメッセージを発信したいという意欲と文体や構成の技巧が出会うところに成立する

と言い、高樹のぶ子は、

書きたいことがあれば、それを実現するために文章もさらに磨かれるだろう。根本の熱がなければ、文学的教養もテクニックも空回りする

と述べている。 続きを読む

沖縄伝統空手のいま 道場拝見 第8回 上地流宗家道場(普天間修武館)

ジャーナリスト
柳原滋雄

実戦的な沖縄空手流派

 沖縄空手の3大流派といえば、最も歴史の古い首里手の象徴である「しょうりん流」と、那覇手の「剛柔流」、そして「上地流」というのが定番だ。中でも上地流は沖縄に伝わった流派では年代的に最も新しく、中国拳法の要素を色濃く受け継いでいるとされる。創始者・上地完文(うえち・かんぶん 1877-1948)の名字を取って「上地流」と呼ばれる。
 上地完文は20歳で福建省福州市にわたり、そこで10年以上かけて南派少林拳の達人から武術を習得した。達人レベルの技法を身に付けて沖縄に戻ったが、帰国後、完文が沖縄で空手を広めることはなかった。中国で弟子の一人が誤って人を殺めてしまった自責の念があったからといわれている。
 勤務先の紡績工場(和歌山)で同僚らに請われて教えるようになった際はすでに50近い年齢になろうとしていた。当初は自分で身に付けた武術を「パンガヰヌーン拳法」と称した。
 完文の2男2女の子どものうち、中学を卒業したばかりの長男・上地完英(うえち・かんえい 1911-91)を和歌山に呼び寄せ、共に稽古する日々を送る。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第63回 正修止観章㉓

[3]「2. 広く解す」㉑

(9)十乗観法を明かす⑩

 ③不可思議境とは何か(8)

(6)自行の境を明かす②

 この質問に対する答えのなかに、前述したように、地論宗と摂論宗の考えを紹介し、批判している。やや長文であるが、引用する。

 答う。地人(じにん)の云わく、「一切の解惑・真妄は、法性に依持(えじ)す。法性は真・妄を持し、真・妾は法性に依るなり」と。『摂大乗』に云わく、「法性は惑の染(ぜん)する所と為らず、真の浄むる所と為らず。故に法性は依持に非ず。依持と言うは、阿黎耶(ありや)是れなり。無没(むもつ)の無明は、一切の種子(しゅうじ)を盛持(じょうじ)す」と。若し地師(じし)に従わば、則ち心に一切法を具す。若し摂師(しょうし)に従わば、即ち縁に一切法を具す。此の両師は、各おの一辺に拠る。若し法性は一切法を生ぜば、法性は心に非ず、縁に非ず。心に非ざるが故に而も心は一切の法を生ぜば、縁に非ざるが故に亦た応に縁は一切法を生ずべし。何ぞ独り法性は是れ真・妄の依持なりと言うことを得んや。若し法性は依持に非ず、黎耶(りや)は是れ依持なりと言わば、法性を離れて外に、別に黎耶の依持有らば、即ち法性に関わらず。若し法性は黎耶を離れずば、黎耶の依持は、即ち是れ法性の依持なり。何ぞ独り黎耶は是れ依持なりと言うことを得ん。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、578-580頁)

と。 続きを読む