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沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流 第19回 しょうりん流③ 知花朝信の開いた小林流(下)

ジャーナリスト
柳原滋雄

知花の直弟子の流れ

 1969年、知花朝信(ちばな・ちょうしん 1885-1969)が他界した後、沖縄小林流空手道協会の2代目会長には宮平勝哉(みやひら・かつや 1918-2010)が就任した。戦前からの古い弟子で、満州の日本語学校で教員を務めたあと、戦後は那覇市役所に勤務した。
 20歳で宮平の弟子となった宮城驍(みやぎ・たけし 1935-)現会長は、宮平のことを「がっちりした体格で、柔道の有段者、沖縄相撲も強かった。人格者だった」と振り返る。
 知花はたびたび宮平道場を訪れ、世間話をしていたが、そうした光景を目にしていた宮城は、

 知花先生は非常に小柄な体格で、いつもニコニコと穏やかに話をされていました。好好爺(こうこうや)という感じで、とても空手の大家には見えなかった。

と当時の印象を説明する。
 知花の身長は160センチもなかったと思われ、その点は、同じ首里手の喜屋武朝徳(きゃん・ちょうとく、1870-1945)とも似通っている。

 宮平先生や比嘉佑直先生は、空手家の中では大柄なほうです。

アテファ重視の稽古を重ねる「昭武館」の稽古風景。右から3人目が館長の大城功さん(読谷村)

アテファ重視の稽古を重ねる「昭武館」の稽古風景。右から3人目が館長の大城功さん(読谷村)

 沖縄空手はもともと、力のない小さな人間が自分を護るために行った護身術のなごりが強い。
 戦後、知花の内弟子として、亡くなるまでの23年間を支えた弟子が仲里周五郎(なかざと・しゅうごろう 1920-2016)、だ。仲里も多くの弟子を育てた。アメリカで活躍し、先日他界した横山和正(よこやま・かずまさ 1958-2018)もその一人で、多くの著書やビデオなどを残した。
 さらに、沖縄小林流空手道協会の副理事長を務める昭武館の大城功館長(おおしろ・いさお 1943-)も、若いころ、仲里道場に通った。「190センチ近い大柄な海兵隊と沖縄の人が組手をしている稽古を見て入門しました」と語る大城は、小林流の伝統通り、巻き藁稽古を重視し、一撃必殺のアテファ(強い突きの威力)にこだわる。

 拳は実は合わせるだけの場所。突きは全身を使って突く。力を抜く技術、体の伸び差しは、巻き藁が教えてくれた。沖縄にはもともと手(ティー)というものがあって、やがて大陸から『型』が入ってきて、ティーを訓練するための手段として型を行うようになった。私たちはそこを基準にやっています。ごくシンプルな教えです。体の使い方、こなし方が一番大事で、型は体の使い方を確認するためのもの、巻き藁は自分を量る道具にすぎません。

 道場の正面には知花朝信師の写真が掲げられ、巻き藁が4本設置されている。大城道場の稽古を見学させてもらったが、型稽古のときに

「壁をちゃんとつくって!」
「前の壁、ちゃんとつくって!」
「呼吸をつぶす(止める)ように」

など、独特の用語で指導を行っていた。
 沖縄小林流協会の第3代会長を務めたのは石川精徳(いしかわ・せいとく 1925-2013)だが、その石川に師事したのが、首里手のメッカ、首里鳥堀町で「守武館」を掲げる上間康弘(うえま・やすひろ 1945-)館長だ。現在、息子の上間建(うえま・たけし 1975-)副館長とともに道場を支える。

 石川先生は、戦前・戦後の沖縄の空手界を知り尽くした人でした。

 そう語る館長の康弘は、知花朝信に直接師事した父・上間上輝(うえま・じょうき 1920-2011)のほか、石川精徳、島袋太郎(しまぶくろ・たろう 1906-80)、知名定吉(ちな・ていきち 1924-2007)、名嘉真朝増(なかま・ちょうぞう 1899-1982)など、5人に師事した。

 型を見れば、小林流のどの道場の流れかが全部わかります。

と語るとおり、同じ小林流でも組織の違いによって型のクセも微妙に異なるという。

 知花先生も、初期の教えと後期の教えは違うみたい。

とも語る。知花自身、50年におよぶ指導歴があり、初期に習った人の型と、終盤期に習った人の型が異なるというのは、他の流派などでもよく聞かれる現象だ。

81年問題の影響

 話は変わるが、空手競技が国体の正式種目となった81年、全日本空手道連盟に加盟するかどうかという問題が、沖縄空手界に大きな議論を巻き起こした。
 現在、沖縄小林流空手道協会は、協会として沖縄県空手道連盟に加盟し、伝統空手と競技空手の両方を行える態勢をつくっている。そのため「志道館」や「守武館」「昭武館」は、いずれも県連に属している。
 一方、比嘉佑直の系列である「究道館」は沖縄空手・古武道連盟に所属。もともと比嘉は長嶺将真と行動を共にし、当初は全空連加盟を後押しする側に回っていたが、実際に弟子たちを競技に参加させると、指定型でないなどの理由で失格にさせられるなどしたことから、自ら別団体をつくり、現在、そちらに所属している。
 また、仲里周五郎の率いた「小林舘」は現在、沖縄県空手道連合会に所属するなど、同じ流派でも、それぞれが沖縄空手4団体に分散している。この点は他の上地流などの流派でも、流派としてのまとまりを考える上で懸案となっている事柄だ。
 守武館では、初代の上間上輝が伝統的な様式の世代であり、競技には無縁だった。一方、孫の建は、競技空手でも多くの戦歴を持ち、その中間世代にあたる康弘館長は、両者の橋渡しのような立場になったとして、次のように語る。

 上輝先生は町道場での練習だけで、競技に関してはノータッチでした。息子が高校、大学と部活に入って、応援に行こうといっても最初は行かなかったですよ。高校最後のインターハイのときに孫を応援しに行こうと無理やり連れ出して、表情には出さなかったですが、少しずつ興味を持ちまして、孫が組手の試合で優勝したときに自分ひとりで祝杯をあげたり、そういうおやじでした。遺品の整理をしたとき、孫の試合結果の新聞の切り抜きがたくさん出てきました。

安室奈美恵も打ち込んだ沖縄空手

三線専門店を営む「妙武舘」舘長の松田芳正さん(那覇市)

三線専門店を営む「妙武舘」舘長の松田芳正さん(那覇市)

 このほど長年の歌手生活にピリオドを打った沖縄出身の安室奈美恵が、中学生のころレッスンの一環として沖縄空手の稽古に励んだことは、本土ではあまり知られていないが、地元の沖縄県ではよく知られている話だ。
 面倒を見たのは小林流空手の看板を掲げる「妙武舘」の松田芳正舘長(まつだ・よしまさ 1939-)。安室は中学1年のとき、朝7時から毎日道場に通ってきたという。
 中学時代、3人一組で演武する型試合に出場し、県で3位に入賞したこともあったと振り返る。2~3年ほど空手の稽古をして、黒帯にもなっていた。
 松田は喜屋武朝徳系の師匠から空手を習ったほか、小林流の仲里周五郎道場にも8年ほど通った。小林流の特徴は「防御と攻撃と転身にある」とも。「相手にけがをさせたらまだまだ。殺人拳でなく、活人拳であれ」などのモットーを持つ。
 松田はもともとの沖縄空手は投げ技や関節技を含み、現在でいうところの総合格闘技に近かったと語る。 
 多くの武人の流れをつくった知花朝信――。2019年2月26日、知花の没後50年の節目を迎える。(文中敬称略)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。