葦の髄から時評vol.3 断罪するメディア――「被疑者がいかに異常な人間であるか」という連呼

ジャーナリスト/編集者
東 晋平

「酒鬼薔薇事件」報道のデジャブ

 神戸市長田区で小学校1年生の女児が行方不明になり、13日後に無残に切断された遺体となって発見された(2014年9月23日に遺体発見)。あまりにも痛ましく、ご家族の心中を思うと言葉が見つからない。そして17年前の1997年に隣接する同市須磨区で起きた、あの連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)を想起したのは私だけではないだろう。
 今回もまた、17年前と何ら変わらないメディアスクラムが繰り広げられている。とりわけテレビは、過去の自分たちの報道姿勢を検証していないどころか、すっかり忘却しているかのようでさえある。行方不明が大きく報じられるようになって以降、まるでデジャブのように〝あの時〟と同じテレビ画面に何度も遭遇した。
 まず捜索活動が始まった時期から、現場には各局や各紙の神戸支局だけでなく大阪や東京から送り込まれた取材陣が大挙して張りつき、不安や憤りを語る地元住民の映像を連日拾っては流し続けた。
 テレビが報道する「子どもたちの姿が消えた公園」「保護者が付き添う集団登校」といった状況は、まさに須磨の事件の時とまったく同じだ。それによって〝恐怖に慄いている地元住民〟というイメージを報道素材として用意しているわけだが、須磨の事件でいえば、子供たちの姿が消えた主な理由は、マスコミがそこら中にいて片端からカメラとマイクを向けてくるからだった。
 今回も、被疑者が逮捕された翌日、保護者や学校関係者に守られて登下校する児童たちの様子を、さも緊迫した出来事であるかのように各局は報じた。被疑者が逮捕されてなお地元の小学生の登下校に大人たちのガードが必要だったのは、そうしなければ子供たちが容赦のない取材者に取り囲まれるからである。
 97年の事件の際、私は何人もの地域住民や、当事者である事件被害者遺族から、常軌を逸したマスコミの取材攻勢について悲憤の声を聞いた。バス停でバスを降りた瞬間にカメラとマイクを向けられコメントを求められる。真夜中の1時になってもインターホンが鳴らされる。そのインターホン越しのいきなりの言葉のやりとりが当人には何の説明もなしにテレビで全国放映される。中学生に現金を渡して加害少年の小学校卒業アルバムを買い取る。あげくにはネタが尽きると遺族の架空のコメントをご丁寧に一問一答形式で創作して掲載した全国紙すらあった。
 私たちの目に〝報道〟として触れていた画面や紙面の少なからぬ部分は、そのようにして作り上げられたものだったのだ。

〈異なるもの〉として分節・断罪する構造

 被疑者が逮捕されるや、今回も過剰な報道が相次いだ。被疑者自身が黙秘しており、そもそも犯行を認めてもいない時点で、メディアは競うように被疑者のプライバシーを暴き立てた。民放は言うに及ばずNHKまでが被疑者と思われる人物のFacebookの内容をニュース番組で公開した。その報道に、視聴者の興味本位の劣情を煽る以外の、いったいどんな意味があるというのだろう。
 本来は裁判で有罪が確定するまで「無罪の推定」と見なすのが、国際人権規約でも明文化されたルールである。この重要な原則を一顧だにせず、警察報道を一方的に垂れ流して1年近くも無辜の市民を犯人視した松本サリン事件での教訓は、各社の中でどのように継承され活かされているというのだろうか。
 こうした事件が起きるたびに繰り返されるのは「いかに被疑者が異常な人間であるか」という検証キャンペーンである。近隣、職場、同級生と、あらゆる人間関係をたどって被疑者の異常性を証言する声が掻き集められる。それは、集めてみたら結果的にそのようになったのではなく、あらかじめメディア側が設定したシナリオの人物像に沿って収集され取捨選択される声なのである。
 逮捕の瞬間から被疑者のプライバシーを容赦なく剥ぎ取り、〝異常な人間〟という用意したレッテルを貼りつけ、先を争って制裁の石をぶつける。彼らは何を根拠にそのような全能感を得ているというのだろう。
 それは「あるべきわれわれ」「万人に属する善」という意識に照らして、「異なるもの」を分節し排除してしまおうというまなざしである。ジャーナリストの玉木明氏は『ゴシップと醜聞――三面記事の研究』(洋泉社)の中で、そうした「異なるもの」をあくまでも「私」とは関係のない「異なるもの」として分節していく断罪報道の文脈の危うさに強い警鐘を鳴らしている。
 なぜならそれは、〈日本人のあるべき姿〉に照らして〈異なるもの〉が分節・摘発されるスキャンダル報道とも、〈日本人のあるべき姿〉に照らして〈賞揚されるべきもの〉が賞揚されるナショナリズム報道とも、〈日本人のあるべき姿〉が徹底的に強調されるという点でまったく同じ構造だからだ。
 被害者に対してはもちろん、加害者となった人間に対して、仮にその動機や背景が許し難く理不尽なものであったとしても、「それは運が悪ければ私だったかもしれない」という人々の想像力の余白を維持していくこと。
 社会を少しずつでもより善いものへと変えていく力は、加害者に対する罵倒でも厳罰でもなく、その想像力であるはずだ。ジャーナリズムは、そのような人々の内発的な成熟を後押しするものでなければならないだろう。


東 晋平 ひがし・しんぺい●神戸市生まれ。駒澤大学文学部卒。『アーティストになれる人、なれない人』(マガジンハウス)、『彩花へ「生きる力」をありがとう』(河出書房新社)、『彩花が教えてくれた幸福』(ポプラ社)などを企画構成。編訳に『オーランド・セペダ自伝』(潮出版社)。共著に『酒鬼薔薇聖斗への手紙』(宝島社)。他に詩人アンドレ・シェニエを描いたアニメ『革命の若き空』の脚本など。