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「助けて」の心が生み出す新たな社会

NPO法人 北九州ホームレス支援機構理事長
奥田知志

 25年に及ぶホームレス支援の活動から見えた本当の絆の在り方とは何か。「助けて」と言える社会を見据え、その基盤となる思想を語る。

「絆は傷を含む」という覚悟に立つ

 ホームレス支援や困窮者支援の活動を通じて感じることは、「努力が足りない」「怠けている」といった「助けられる側」への自己責任論とともに、「助ける側」に向けても「助けるなら最後まで自分ひとりの責任でやりなさい」という自己責任論があることです。このような自己責任論がある中では、助けることのハードルが上がり、おいそれと人助けなんてできなくなってしまいます。
 震災前の2010年のクリスマスの時、匿名の人から児童相談所にランドセルが届けられました。いわゆる「タイガーマスク現象」です。この現象は無縁社会にあっても「この世の中も捨てたものじゃない」と、人と人とのつながりがまだあることを多くの人に想起させたことと思います。
 たしかに行為そのものは並大抵のことではないですし、とても良い行為だと思います。私が気になったのはそれが匿名のもとに行われたことです。この匿名性の中に「これ以上関わると危ない」というような出会いの回避があったのではないかと感じています。
 つまり「子どもたちの役にたちたい」という思いとはうらはらに、直接子どもたちと出会ったら「もう知らない」とは言えなくなってしまうことを恐れ、一歩踏み込んだ顔の見える関係へと踏み出せなくなってしまったのではないかと思うのです。
 たしかに直接出会うことで時には傷つくこともあります。実際に私どもの支援の場でも、よかれと思ってしたことが「こんなもの必要ない」と言われてしまうことが何度もありました。
 しかし、私はその傷つくことも含めて〝絆〟だと思います。誰かが自分のために傷ついてくれる時、「自分は生きていていいのだ」と確認することができる。逆に自分が傷つくことで誰かが癒やされると知る時、そこに自分の存在意義を見出すことができる。本当の絆とは、こうした自己有用感や自己尊重意識で構成される相互性を持つものです。 
 だからこそ、私は「絆は傷を含む」ものだと言い続けてきました。このことを覚悟しない限り、本当の絆を結ぶことはできないと思います。

「助けて」と言えない子どもたち

 私は、子どもたちがある日突然、「助けて」と言うこともできずに死んでいってしまう社会は絶対に嫌です。子どもは誰よりも「助けて」と言っていい存在のはずです。しかし、現在、大人社会が1人で生きていける人を立派な人間だと描き続けてきたことで、子どもや路上に投げ出された青年は「助けて」と言えなくなってしまったのだと思います。
 子どもが「助けて」と言える社会にしていくためには、大人が子どもの前で「俺も助けてと言わないと生きていけないんだ」ということを示すことです。
 以前、小学生を対象に行った「ホームレス支援の講座」で、社会復帰を果たした元ホームレスの男性に話をしてもらいました。失職により生活が困窮し、誰にも助けを求められないまま、路上での生活をすることになったその人は、ある日病気にかかり路上で死にそうになりました。その時に通りがかりの人に助けられたのです。当時を振り返りながら子どもに語りかけます。
「この世の中には助けてくれる人はいる。『助けて』と言えた日が助かった日だったよ」と。そして私からも「みんなも学校で苦しいことがあって、もう死んでしまいたいと思うことがあったら『助けて』って言っていいんだよ」と子どもたちに伝えました。会場で涙を流しながら聞いていた子どもの姿が今も心に残っています。
 子どもを追い詰めているのは私たち大人です。戦後社会は頑張った分、成果が出た時代でしたが、今は違います。
 だからこそ「頑張る」ことだけを子どもに教えるのではなく、「頑張れなかった時にどうするか」「『助けて』と言える大人がどれだけ格好いいのか」ということを示してあげることが必要だと強く感じます。

弱者から次代の花形が出る

 私がこのような思いを抱く根底には、キリスト教の宗教的な思想があります。
 キリスト教の本質を極めて単純化して言えば、私が背負わなければいけなかった十字架をイエス・キリストが代わりに背負い、そのキリストが私の代わりに傷つき死んでいく、その贖いによって、私たちは赦され生かされているという考え方です。つまり、キリスト教最大のメッセージは、十字架に架けられ傷ついた者が救い主であるということです。
 ヨハネの福音書に「光はやみの中に輝いている」という言葉があります。私はホームレス支援の活動を通して、苦しむ人、追いやられた人たちが持つ認識論的特権があることを学びました。そして、野宿の親父さんたちから人間とは何かを教わったのです。「弱者」として蔑まれている人々から学んでいく視点こそ、今の時代に足りないものだと思います。
 かつて教育学者の林竹二氏が「創世記」という授業の中で語った生物の進化についての話が印象的です。それは、すべての生き物は、最初水の中から生まれた。その後、最善の深さのところを占領する強者が現れる。そうすると弱い者は浅い水際に追いやられるが、その弱い者の中から陸でも水でも生きられる両生類が生まれる。さらにその中の弱い者は水のないところに追いやられ、そこから陸上の動物が生まれてくる。こうして弱者の間から〝次の時代の花形が出現する〟という視点です。
 そこで気づかされることは、進化とは弱者の系譜だということです。私はここに次代の希望を見出します。強い人が弱い人を助けるのではなく、弱い者同士だからこそ、絆が必要であり、その弱さや貧しさを背負わされた人たちこそが、新しい絆を創り出していくのだと考えます。

傷を分かち合う社会の仕組みづくり

 人との関わりを避けることで、自分の安心・安全を保とうとする人がいますが、私は「自分を守る」ということの本当の意味を見つめなおす必要があると思います。
 水の中で泳げる人と泳げない人の違いの1つは、息継ぎができるかどうかです。泳げない人は水中で息を吐かないから水面に顔を出しても肺がいっぱいでそれ以上息を吸うことができません。水中でしっかり息を吐く人は顔を上げた時に息を吸うことができます。
 今、多くの人がゆとりのない中で、他者との関わりを避け、まるで、水中で息を吐かないように、いろいろなことを手放さず握りしめています。でもそれで本当に安心・安全を手に入れることができるのでしょうか。
 私には、現代人がこの安全の確保によって、自らを無縁という孤独へと追い込んでいるように思えてなりません。
 聖書の中には「汝のパンを水の上に投げよ。汝、後の日にそれを見出さん」(伝道者の書11章)という言葉がありますが、本当の意味で自分を守るというのは、傷つくことであり、手放すことだということを教えてくれています。
 そして社会という視点で語るならば、自己責任だと言って、一部の人だけに致命傷を負わせる社会ではなく、赤の他人同士が傷を分かち合えるように、傷を再分配していく仕組みづくりが必要だと考えます。それはいわば「健全に傷つくことを保障する社会」です。
 そのように他者を生かし、自分を生かしていく〝絆の傷〟が生まれていけば、きっと〝タイガーマスク〟も胸を張って正体を現すことができるはずです。
 そんな新しい社会を生み出していくキーワードが「助けて」という言葉なのだと思います。

<月刊誌『第三文明』2014年5月号より転載>

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『「助けて」と言える国へ――人と社会をつなぐ』
奥田知志、茂木健一郎
 
 
価格 821円/集英社新書/2013年8月21日発刊
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おくだ・ともし●1963年、滋賀県生まれ。日本バプテスト連盟・東八幡キリスト教会牧師。NPO法人 北九州ホームレス支援機構理事長。関西学院大学神学部大学院修士課程修了。著書に『もう、ひとりにさせない』(いのちのことば社)、脳科学者・茂木健一郎氏との共著『「助けて」と言える国へ』(集英社新書)がある。 NPO法人北九州ホームレス支援機構