シリーズ 文化芸術を考える②――「地域アート」の勃興と芸術家の生きる道

SF・文芸評論家
藤田直哉

<シリーズ 文化芸術を考える>第2弾
現代日本の「文化・芸術」「地域アート」をどう考えるべきか。

王侯貴族・パトロンが生んだ宗教的芸術

 文化・芸術とは、もともと特権階級のものでした。芸術家は王や貴族やパトロン(支援者)からお金をもらい、彼らが求める絵を描いたり音楽を作ったわけです。
 文化・芸術は、宗教とも密接に関係してきました。西欧の宗教的建築や絵画には、圧倒的に心を打つものがあります。共産主義系の論者などが「王や貴族が奴隷を使い、権力を誇示するために作ったものだ」「あんなものに金をかけるくらいなら、飢えている人にパンを配ったほうがマシだ」などと批判することもありますが、優れた宗教的芸術作品は、人々の魂を救済したに違いないと思います。
 神に近づき、宗教的、霊的な体験をしたい。これまでの人類が想像もしなかった荘厳な建築物を造ることは、パンを配る福祉と同様、人間にとって必要だったのだと思います。ある程度飢えと寒さをしのげたとき、人が生に対して感じる空虚感を克服するために芸術こそが必要なのです。
 19世紀になって芸術作品の商業的な流通市場が生まれると、芸術家は自由になりました。王や貴族から束縛を受けることなく、作家個人のオリジナリティーや個性を発揮できるようにという意味においてです。しかし、マーケットができたおかげで作家が自由に作品を作り、売れるようになったかと思いきや、そうではありません。自分のなかで価値が高いと思える芸術性を発揮したところで、マーケットに受け入れられなければ芸術家は生活していけない。芸術作品のマーケットが成立したせいで、芸術家が不自由になってしまった側面もあるのです。
 今日においても、オペラや歌舞伎といったハイカルチャーは比較的裕福な人々によって支えられています。市場による経済的な下支えがあれば芸術家は生活していけますが、そのような芸術家はひと握りです。どうすれば芸術家が経済的安心を担保しつつ、自分が作りたい作品を作っていけるのか。

「地域アート」の利点と欠点

 近年日本では「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」や「瀬戸内国際芸術祭」「あいちトリエンナーレ」など、地域共同体と一体化した地域アートが注目を集めています。なぜ日本で地域アートが増えたのでしょう。
 第1の理由は、不況にともなって芸術家が生活できなくなったからです。芸術家は申請書を書いて応募し、国や自治体をパトロンにつけて資金をもらう必要が出てきました。彼らは国や自治体、さらには税金を払っている国民や市民を満足させるアートを作らなければなりません。
 第2の理由は、自治体の側に「過疎化や少子高齢化、地域の衰退を何とかしたい」という切なる思いがあるからです。
 第3の理由は、共同体の崩壊です。地域コミュニティーも会社組織も組合も弱体化した今、アートという名目で皆が1ヵ所に集まることによって、地元の一体感が得られるのではないか、と地域アートの主催者は考えました。
 地域アートが今直面している課題は〝盆踊り大会〟と似てしまっていることだと僕は考えています。地方では、極端な例ですがアーティストの芸術性などどうでもよく、学園祭の看板をうまく描けたほうが重宝されたりします。地方にもともとあった土着的な祭りとアートが融合しながら、地域アートがただのお祭りに食われかけているのではないでしょうか。
 行政が予算を出したイベントの常として、集客がうまくいかなくても誰からもとがめられない悪い側面もあります。芸術家が多少仕事をサボっても許されたり、予算を握った采配者が自分の仲間ばかり集めてしまう嫌な側面もあるかもしれません。そうなると、芸術にとって発展の余地はない。ここが今の地域アートのいちばん危険なポイントだと思います。
 同時に、地域アートにはよい側面もあります。地方ではあちこちで建物が空いていますから、1人の芸術家が広いスペースで、予算をかけずに自由にダイナミックなアートを展開できるのです。大規模な地域アートのおかげで、まだ無名の作家に作品発表のチャンスが与えられます。
 日本のそれぞれの地域が自分たちの独自性と特殊性を生かしながら、地域ならではの優れた作品を生み出していく。芸術家は行政の後ろ盾を受けながら自由に芸術性を発揮し、地域の人たちは「縁遠い高級芸術」ではなく、身近な存在としての優れたアートに親しむ。そこまでたどり着ければ、こんなに素晴らしいことはありません。
 今は地域アートに種をまいている段階です。行政も芸術家も僕たちも、「文化・芸術は国家百年の計」という構えでアートの未来を考えるべきではないでしょうか。

ロンドン五輪開会式とクールジャパン

 政府に「クールジャパン推進会議」という有識者会議が設置され、「ジャパニメーション」(日本発のアニメーション)、「クールジャパン」といったキャッチコピーがしきりに語られます。「クールジャパン」を世界に売りこむ戦略に、僕は賛成です。アメリカに行くと、ポケモンやキティちゃんをあちこちで目にします。こういうソフトパワーは日本の印象をよくしますし、世界の人々も幸せになれる。
 ただし、制度にはめこまれたとたんに文化・芸術が生命力を失ってしまう可能性があります。  
「クールジャパン」を世界に売りこむにあたり、「青少年にとって健全でない」といった理由にかこつけて、あらかじめ規制を加えてしまうのはよくありません。
 マンガやアニメ、ゲームのクリエイターは、自分たちが作ったものが世界から「クールジャパン」と賛嘆されるほど成功するとは思っていなかったはずです。地道に作っていたものが、結果的に優れた作品として評価されるようになった。「クールジャパン」戦略には賛成ですが、文化に圧を加えて萎縮させては本末転倒です。国内の文化の種を、よい意味で「放置する」ことが大事だと思うのです。
 ロンドン五輪(2012年)では、イギリスのロックや『007』が開会式に取り入れられました。ロックはもともと反社会的な音楽ですが、イギリスはそのロックによって、世界に確かな地位と存在感を示しました。
 オリンピックの開会式でロックンロールを流し、ジェームズ・ボンドが女王をエスコートしながらパラシュートで空から舞い降りてしまう。あれは実に優れた演出でした。多少危ないものまで含めてアートなのですし、土壌が豊かだからこそきれいな花が咲くわけです。土の下に豊穣な栄養が満ちていることをわかったうえで、地面の下に広がる幅広いアートに対して「なるべく見ないフリ」をしてほしい。行政や自治体には、それくらいの度量が必要です。
 地域アートがさらに全国各地に広まり、〝文化版・地方分権〟によって結果的にアートの中身が薄まってしまってはいけません。芸術家は都市部と地方の格差を逆手に取ったり、その土地の独自性をうまくつかんで、歴史に残る作品を作ってほしい。行政は地域から優れた作品が出ることを願いつつ、資源を配分したあとは「なるべく放置する」。
 たった1つのすごい芸術が、多くの人々を救うことがあります。芸術とは、いわば人類がどこまで行けるかを試す飛距離コンテストのようなものです。地域性から、人類史的な普遍性へと一挙に飛躍する芸術の奇跡を、期待しています。

<月刊誌『第三文明』2013年12月号より転載>

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ふじた・なおや●1983年、札幌市生まれ。SF・文芸評論家。早稲田大学第一文学部(文芸専修)卒業。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻博士後期課程在学中。08年に日本SF評論賞・選考委員特別賞を受賞し、「SFマガジン」で評論家としてデビュー。11年には「トーキョーワンダーサイト本郷」の企画展に参加して作家としてもデビューした。雑誌「ダ・ヴィンチ」で「7人のブックウォッチャー」を担当中。近著『虚構内存在――筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』。