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シリーズ 文化芸術を考える③――「日本発の文化で世界とつながる」

批評家
濱野智史

<シリーズ 文化芸術を考える③>
情報化社会の背景には、今や世界に広がりつつある日本特有の文化があった。そこから社会の変化を読み解いていく。

情報技術の上に存在する多様な文化

 ここ15年ほどの間で携帯電話やインターネットが普及し、情報技術が全面化しました。その中で〝情報技術が社会を変える〟ということが数多く語られてきました。
 まず、この考えには前提とされる社会像があります。それはアメリカを中心とした欧米近代における〝個人を強くする〟というストーリーです。
 それまで国家による戦争に寄与させられてきたコンピューターが、個人が自由に使える「パーソナル・コンピューター」として位置づけられ、インターネットの登場により、国家やマスメディアだけが情報を発信・操作するのではなく、個人が主体的に情報を得たり発信したりすることができるようになりました。これがジャーナリズムの文脈では、個人による「小さな草の根的ジャーナリズム」の台頭を、ビジネスにおいては、「ノマド」といった個人がフリーランス的に働くスタイルの普及につながります。パソコンもインターネットもフェイスブックも、すべて個人をエンパワーメント(自分自身の力で課題を解決していくことができる能力を獲得すること)するという考えの延長に位置づけられ、〝情報技術が社会を変える〟という議論が行われてきたのです。
 それは間違いではありませんが、私はもう1つ別のストーリーに注目したいと思っています。
 日本では「2ちゃんねる」のような匿名系の掲示板が人気を集めました。そこでは個人が強くなるというよりは、輪郭がボヤッとした個人が匿名で集まり、その集団の中で議論をしたり、時に炎上したりというようなことが起きています。個人というより匿名の集団がエンパワーメントされているのです。
 インターネットのような技術はたしかに個人を強くする。ただしインターネットはそもそも技術的に、その上にのっかるアプリケーションはなんでもいいんですね。技術的な制約がありません。何がインターネットの上で発展するかは誰にもわからない。だから、インターネットサービスは国によって違ったものが発展していきます。今、世界中でインターネットという単一で共通のインフラが普及しているけれども、その上部には複数の多様な文化が存在することに視線を向ける必要があると思います。

ネット空間とリアル空間の重なり

 アメリカで情報社会を推進してきた代表格はハッカーのような人たちですが、日本では2ちゃんねるのような匿名的なものと相性が良かった〝オタク〟の人たちがその役割を担ってきました。
 オタク文化とはいわば、強い個人を前提にした社会では「生きづらい」と思っている人たちの文化でした。「まとも」な社会に対しある種の劣等感やルサンチマン(強者に対しての弱者の憤りや非難の感情)を持つ人たちが、現実世界の中でいいとされているもの、たとえば恋愛などから距離を置き、現実とは異なる虚構の存在を「これがいいんだ」とあえて主張する。これがオタクの基本的な身振りです。そしてそういうことを主張するのに、匿名のネット空間は居心地が良かった。2次元のキャラクターに萌えるということを、公に顔と実名を晒していうのは「恥ずべき」ことだからです。
 それがインターネットが普及した今、オタク文化は、かつてのようにネット空間の中だけに閉じたものではなく、リアルの世界に揺さぶりをかけるようになってきました。
 その1つの顕著な例が、AKB48(以下、AKB)のようなアイドル文化です。アイドルなんて、ひと昔前は「たかがアイドル」と揶揄されてきました。しかしそれがAKBの総選挙では、ファンが〝推しメン〟と呼ばれる〝自分が好きなメンバー〟のランキングを競うために、CDを何枚も大量に購入しています。だからAKBのシングルは記録的な枚数を売り続けている。そんなものにお金を使うのはバカバカしいと思う人が大半でしょうが、結果としてAKBに対する社会的関心や認知度は高まりました。
 こうした行動は、一昔前にオタクの人たちがアニメの声優のCDをたくさん買った行動から始まりました。アニメソングがオリコンランキングに入らないことへの抗議として、「だったら自分たちでたくさん買ってランキングに入れよう」とネット上で「運動」が起こったのです。これらは、ネット空間から社会に対するある種の異議申し立てと見ることができます。デモで広場を占拠する代わりに、オリコンランキングの上位を占拠する運動とみなせるわけです。
 ほかの国ではもっとストレートな形の運動が起きています。若者による社会への異議申し立ては(その成否はさておくとしても)、中東ではフェイスブックを通じた民主化革命に、ニューヨークではウォール街の占拠デモにつながりましたし、ロンドンでは大規模な暴動に陥ってしまいました。ネットを通じた現実社会への異議申し立ては、国ごとに異なった形で表れます。
 個人が強くなるという近代の価値観に照らせば、海外で起きたこうした若者の行動は一定の評価を得ますが、日本のオタクの人たちの行動に対してはおよそ「くだらない」「日本の若者の間ではなぜ運動が起こらないのか」という評価しか与えられません。
 しかし社会学的に見ればその背景は似ていて、社会に訴えかける回路が違うだけなのだと思います。
 日本ではニコニコ動画やAKBのように〝祭り〟に参加して熱狂的に盛り上がることで、社会にインパクトを与えようとしました。この日本特有の社会に訴える回路こそ、日本における〝情報技術が社会を変える〟ことのもう1つのストーリーなのではないかと思います。

アンチを乗り越えるつながり

 近代の個人主義が前提の社会では、個人が所属するのはせいぜい家族や地域、会社、学校といった集団でしたが、今やインターネットによってさまざまな趣味共同体と簡単につながることができるようになり、いろいろな場所とつながりを持つ多元帰属のチャネルが増えつつあります。これは望ましいことだと思います。 
 オタク文化が持つ優れた特徴は、そのつながりが国境を簡単に超えていくという点です。
 ネット右翼的な若者は日本と同様に中国や韓国にも存在し、彼らはネット上で激しく衝突することもあります。ただ、以前に韓国のネット右翼の若者と会ったことがあるのですが、彼らは日本のオタクの人たちと見た目も趣味趣向も同じような人たちでした。それは中国のオタクショップの店員もインドネシアのアイドルファンにも同じことがいえます。
 だから東アジアの中で若いネット右翼たちが互いを攻撃しあっているのは皮肉なことです。実は互いに似たような境遇の人たちが、国のフィルターを介するがためにいがみあっているだけなんです。国の枠さえ外れてしまえば、何らかのオタク文化を媒介にしてすぐにでも仲良くなることができるのに、です。
 アイドル文化はまさにその顕著な例の1つです。
 仮に今後AKBの総選挙が中国版やインドネシア版AKBといった海外のアイドルも含めた形で行われたとします。そこで中国のメンバーが上位に入ってきた場合、日本のオタクの人たちはもしかすると最初のうちは「アイツは何だ」と叩くかもしれません。でも握手会に行って実際に会って間近で見たら、「やっぱり、あの子可愛いよ」とコロッと態度を変えるかもしれない。実際、アイドルの現場では日々そういう「転ぶ」オタクがゴロゴロいるんです(笑)。それと同じような形で、いがみ合っていた隣国の人同士の距離が近づいていけばいいと思うんです。
 これは一見、くだらない話のように聞こえるかもしれません。しかし、こうした「身体的な触れ合い」こそが、情報社会においては最も人をリベラルにする力を持つと思います。話し合いでは解決しない問題というのはどうしてもあって、それを超えるのが「接触」だと思うんです。そこにこそ、〝アンチ〟を乗り越えるヒントがあるような気がします。
 今や東アジアは、隣国との衝突が懸念され、歴史認識の問題も一向に解決しない、まさに〝総アンチ状態〟にあります。もしオタク文化が存在しなければ、オタク系の人たちが抱くルサンチマンがナショナリズムへと収斂してしまうでしょう。その観点で見れば、国を超えて広まりつつある日本発のオタク文化は、少数派の「救済」に寄与する世界宗教の様相を呈しているとさえ見ることもできるのではないでしょうか。
 これからの日本社会と世界の在り方を考えるとき、とりわけ強い個人にはなれない若者がハマり、世界と共有できるオタク文化に着目することは、その世界史的な射程を見極めるうえでも、とても重要なことだと思っています。

<月刊誌『第三文明』2013年12月号より転載>

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はまの・さとし●1980年、東京生まれ。批評家。慶應義塾大学環境情報学部卒業。同大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。専門は情報社会論。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター研究員を経て、現在、株式会社日本技芸でリサーチャーとして活動する。2011年から朝日新聞論壇時評委員、早稲田大学・千葉商科大学の非常勤講師を務める。著書に『アーキテクチャの生態系』(NTT出版)、『前田敦子はキリストを超えた』(ちくま新書)、共著に『AKB48白熱論争』(幻冬舎新書/小林よしのり、中森明夫、宇野常寛との共著)、『希望論』(NHK出版/宇野常寛との共著)などがある。