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分断された社会をどう生きるか

関西学院大学准教授
鈴木謙介

 ウェブやスマートフォンの発達に伴い、現実空間に無数の「孔(あな)」が開いてしまったという鈴木謙介さん。人間が「分断」されてしまった社会でどう生きるべきか、話を聞いた。

物理的空間に開いた「孔」

 私たちが生きている空間は、単なる物理空間ではなく、いろいろな意味を帯びています。教室であれば「授業をする場所」という意味があります。
 それが携帯電話やスマートフォンの普及に伴い、「場所」がもつ意味は単一ではなくなってきました。たとえば自宅で家族と一緒にいるときに仕事の電話がかかってくれば、プライベート(私的)な家庭という場はオフィシャル(公的)なものに変わります。
 1つの場所に、1つの意味を固定することができない。外からさまざまな情報が入ってくるため、1つの物理的空間にたくさんの「孔」が開いてしまう──こうした状況を私は「多孔化(たこうか)」と呼んでいます。
 これは今に始まったことではありません。たとえば昔から野球中継をラジオで聴きながら球場で試合を見る人がいます。ただ、ラジオとスマホでは決定的に違う点が2つあります。
 1つは情報を受け取るだけでなく、こちらから情報を発信することもできること。もう1つは、情報をやり取りしている相手が、隣にいる人よりも親密で大切である可能性があることです。「ネットでつながっているのは遠い人であり、目の前にいるのは近い人」という前提は成り立たなくなっているのです。目の前にいる人とはそれほど親密ではなく、スマホを通じてつながっている人のほうが心理的距離が近いことだってあるわけです。コミュニケーションのあり方が変化しているのです。
 ニンテンドーDSのゲーム「ドラゴンクエストⅨ」には「すれちがい通信」という機能があります。電源が入ったDS同士が近づくと、無線通信が始まって情報やアイテムの交換ができるのです。これはやがて、各地に、ゲーム中に出てくる酒場の名を借り「ルイーダの酒場」と呼ばれるプレーヤー同士の交流の場を生み出すことになりました。傍目からは、DSをもった人たちが集まって、会話するでもなく立っている光景にしか見えません。
「すれちがい通信」を気持ち悪いと感じる人もいるかもしれませんが、私たちはこれまで似たようなことをやってきました。映画館や劇場で、見知らぬお客さん同士は会話をしません。でも映画の上映中は静かにしていたり、演劇が終わったときには皆で拍手するといった共通のマナーがあります。互いに会話をしているわけではないのに、皆で自然と1つの「場」を作り上げているわけです。
「ルイーダの酒場」のようなものがこれまでのものと違うところは、劇場などの限定された空間ではなく、ネットを介することで、町なかの公共空間に、突如そうしたコミュニケーションの場が出現する可能性があることです。

『三丁目の夕日』とコミュニティー

 ネットを介したコミュニケーションが発展する一方で、地域コミュニティーなどの共同体が崩壊しているとよくいわれます。
 ひと口に「共同体」といっても種類があります。1つは昔から伝統的に培われてきた村の人々の集まりのようなもの。もう1つは近代社会の利益や規則によるつながりです。社会学ではこの2つの中間に位置するような集団を理想の共同体と考えてきました。それは、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』で描かれるような、地縁・血縁でもなく、利害や規則でつながっているわけでもない、まさに共同体としか言いようのない集団です。
 映画では、昭和30年代を生きる星野六子(ほしのむつこ。堀北真希が演じている)が集団就職列車に乗って田舎から東京にやってきます。「鈴木オート」で働き始めた六子は、鈴木家の人々から家族同然にかわいがってもらいました。生まれた土地を離れてやってきたとしても、「鈴木オート」なり町内会なりに温かい絆がある。こうした受け皿は、今ではどんどん弱体化しています。
 ちょっと前までの日本では、共同体が弱体化したとしてもお金によってカバーできました。バブル期までの日本はとても豊かでしたから、人に手助けしてもらえないことは、お金を払ってサービスしてもらえばよかったのです。
 しかし今の若い世代では、やたらとお金を使ってサービスを買うわけにはいかなくなりました。派遣社員として夜の仕事をしているために、ほかの人と生活時間がまったく合わない。話し相手がいない。どのコミュニティーにも所属せず孤立した人々が、自分の居場所を見いだせない、など、お金で解決できないような課題に直面するようになりました。
 ここ数年、若い世代や高齢者を中心に「コミュニティーや絆を取り戻そう」という動きが強まってきました。ただこれは昔の「ムラ」のように、ベッタリとした面倒くさいつながりを復活させようとしているものではないでしょう。つながりといっても、ネットを使いこなして話し相手を探すことだってできますし、立ち飲み屋で見知らぬ人と仲よくなることだってできるわけです。こうした緩やかな関係性が、よすがのない人の受け皿になっている面もあるのです。
 もちろん、そこから先は足りないところもあります。子育て支援機能や公園の草むしりなど、自らコストを支払って維持しなければいけないようなコミュニティーの機能については、もっと考える必要があると思います。
 ソーシャル・キャピタル(社会資本)を研究する社会科学の知見によると、結束が強い地域はヨソ者が入りづらく、ヨソ者に冷たいのです。かといって「このコミュニティーからは出入り自由ですよ」と宣言してしまうと、抜けるのも自由ですから結果的に結束が深まりません。
 大都市のように人の入れ替わりが激しい地域で「ヨソ者は入ってくるな」と言っても、コミュニティーはますます先細る一方です。人の入れ替わりが少ない地方都市や郊外だからといって、つながりを強めすぎるとコミュニティーが排他的で息苦しくなってしまいます。「絆が弱まっているなら強めればOK」という単純な話ではないのです。その地域にあった、バランスのよい状態を見つけていくべきです。

「おひとりさま」世代の高齢化・孤立化

 現在、日本では団塊の世代(1947~49年生まれ)の高齢化と介護・医療の問題が語られています。団塊の世代には結婚して家庭を築いている世帯が多いわけですが、あと10~15年すると未婚の「おひとりさま」世代が50~60代になるのです。今後、彼らの孤立が問題になっていくでしょう。
 一生独身で過ごすであろう人々は、今や男性が20.14%、女性は10.61%にのぼります(2013年「少子化社会対策白書」)。40~44歳の未婚率は男性が28.6%、女性は17.4%、45~49歳は男性が22.5%、女性が12.6%です(2010年「国勢調査」)。未婚者が50~60代以上になったときに、地縁も血縁もなく孤立し、お金で問題を解決することさえできなくなる可能性があります。
「目の前にある現実を大事にしよう」と言われても、目の前に大切な人がいない。家に帰ってきても誰もいない。目の前の現実は「多孔化」が進み、あちこちに穴がたくさん開いてみんなバラバラの空間を生きている。そういう人にとっては、目の前の現実など大事にしようといっても、かえって孤独が深まってしまうのです。
「スマートフォンやソーシャルメディアの普及によって、現実の人間関係が希薄になった」と主張する人がいますが、私はまったく逆の認識です。現実の人間関係が希薄であるため、ネットを通じなければつながりをもてない人がいます。現実世界だけでなくウェブ上でのつながりまでバラバラに「多孔化」する事態を避けなければ、孤立する人々を他の人々につなぎとめることはできません。

つながりや「場」を提供する

 生きている空間にたくさん穴が開いてしまうと、私たちはその場所でどう生きたらいいのかわからなくなってしまうものです。バラバラになればなるほど、「この場所はこういう場所だ」と決める力が求められるようになってきます。その1つが権力だったり、宗教的なものだったり、はたまた近年各地で隆盛を誇るロックフェスティバルのようなものだったりします。ロックフェスのようなタイプの一体感を人々が求めているとすれば、その背景には、穴だらけの現実のなかで、目の前にいる人が自分と同じ現実を生きている保証がないということがあげられると思います。
「この場所はこういう場所なのだ」と感じられるような空間や場、つながりを提供する役割を宗教が担うことは十分に考えられることです。特に宗教には、人々のつながりを結んでいく機能もあります。人々の間で何が求められているのかに目を向けていくべきであることは間違いありません。

<月刊誌『第三文明』2013年11月号より転載>


すずき・けんすけ●1976年、福岡県生まれ。東京都立大学(現・首都大学東京)大学院社会科学研究科博士課程を単位取得退学。専攻は、理論社会学。関西学院大学社会学部准教授。社会学や政治哲学の見地から、インターネットや携帯電話など若者文化を鋭く分析。2006年から「文化系トークラジオLife」(TBSラジオ)のメインパーソナリティーを務める。著書『SQ Social Quotient〝かかわり〟の知能指数』『ウェブ社会のゆくえ<多孔化>した現実のなかで』など多数。