支え合う社会をつくりだすための人材育成を

ライター
渋井哲也

「生きづらさ」をテーマに取材を続けてきたライターの渋井哲也さん。今の社会をどう見ているのか。

増え続ける20代の自殺

 ここ数年、年間自殺者数がゆるやかに減少しています。うつ病や多重債務などへの対策の効果が出始めているといわれています。
 その一方で、20代の死因に自殺が占める割合は過去最高となっており、約半数が自殺です。就職の失敗や進路の悩みなどが原因の1つとしてあがっています。若者にとって生きづらい世の中になっているのかもしれません。単にお金の問題にとどまらない若者の複雑な悩みを、社会全体で注意深く見つめていく必要があると感じています。
 現在の若者世代と彼らの親世代との間には、大きな意識のギャップがあるのではないかと思います。象徴的なものが「雇用」に対する考え方です。今の引退世代には、「頑張れば頑張っただけ生活が安定する。結婚もできるし、住宅も持てるし、老後資金だって蓄えることができる。人生は何事も頑張ることに価値がある」という強い意識があるのです。だから若者も、自分たちの世代と同じように、必死になって頑張るべきだと考えているのです。これが行き過ぎた「自己責任論」などに現れ、若者に心理的なプレッシャーを与えてしまっているのです。
 しかし非正規雇用が約2000万人にも達し、全労働者の38%以上を占める現代にあって、どれほど頑張っても生活が安定しない厳しい現実が存在します。
 また日本では、正社員として働くことに特別の意味があり、単なる労働にとどまりません。人間的なつながりや、保険や年金などの社会保障も、自分が所属する企業を通じて提供されてきたのです。ところが派遣労働の拡大は、このつながりや生活保障を丸ごと消滅させてしまいました。短期の雇用契約のため友人がつくりにくく、病気やけがなどによる失業のリスクに常にさらされているためです。

「忘れられる権利」の議論

 今年(2013年)6月、岩手県議が自身の問題行動をブログに書き込み、ネット上で「炎上」する事件が起こりました。追い詰められた県議は謝罪会見を開き、その後、自らの命を絶ってしまいました。
 もちろん自分の過ちは反省すべきです。公人であれば一定期間批判を浴び、責められる時期があるのも致し方ないとも思います。しかし真摯に謝罪をし、反省をしたにもかかわらず過去の行為を延々と蒸し返され、いつまでも立ち直ることが許されないのは大きな問題です。
 ネットには、情報が蓄積されてしまうという特性があります。たとえばネット社会が到来する以前なら、他人の過去を知るためには、図書館などで新聞を検索するという大きな手間がかかりました。ところが今ではネットで個人名を入力すれば、瞬時に他人の過去を知り周囲に教え広めることのできる時代です。
 いつまでも過去の不祥事を責められるのであれば、人は誰もが萎縮してしまいます。そして萎縮するムードが社会全体へと広がれば、行き過ぎた自己責任論とあいまって、悩み苦しんでいる人間がSОSを発し助けを求めることのできない社会へ陥ってしまうのではないかと思うのです。
 すでに欧州では、ネット上の新しい権利として、自分に不利益のある過去を削除させることのできる「忘れられる権利」が認められつつあります。日本もこの問題を議論していくべきです。ネット上の言論に一定の制限を加えることは、国民の「知る権利」や「表現の自由」にかかわるため慎重な議論が求められます。しかし忘れられる権利についても、日本国憲法が定めた「幸福追求権」に含まれる重要な権利のはずです。
 私は、支え合う社会に向かって、今こそネット言論の哲学的な議論を深めていく時期が訪れているように感じられてならないのです。

絆をつくりだすシステム整備を

 私は1990年代後半から、若者の孤独や生きづらさについての取材を始めました。年を追うごとに、彼らの「あきらめムード」が広がり続けていることを強く感じています。同時に若者同士の格差も広がりつつあることを実感しています。
 たとえば、若者世代すべてが同じ境遇であれば、まだコンプレックスを感じないでもすむでしょう。しかし家庭環境や学歴を理由として経済格差が広がってくると、「なぜ彼だけが恵まれているんだ!」と疎外感や孤立感、不公平感などをいっそう深めることにつながってしまうのです。
 同世代間の絆形成が阻害されると、必ず足の引っ張り合いが起こります。それも身近な人の足を引っ張ろうとするのです。たとえば年収300万円の人なら、より少ない年収の層に対して攻撃したりします。年収1000万円以上の高額所得者にはさほど批判の矛先を向けません。あまりにもかけ離れ過ぎていて生活の実感が抱けないため、相手をしても仕方ないと最初からあきらめているためです。むしろ「自分はこんなに働いているのに、あいつは生活保護をもらうなんて許せない!」といった形で、批判の視線がより弱い者へと向けられやすいのです。
 今、大きな問題となっている「在特会」(在日特権を許さない市民の会)の問題も、その延長線上にあると私は考えています。彼らは政治的なイデオロギーを掲げながら、在日外国人が何か特別な権利を得ているかのような主張を繰り返していますが、私たち日本人以上の特権的待遇を受けているわけではありません。しかし彼らにすれば、「自分たちは生活保護をもらっていないのにアイツらはもらっている。とんでもない在日特権だ。許せない」となって、小さな権利をめぐる過激な争いにつながってしまっているのです。
 雇用の流動化によって企業の福利厚生が崩壊し、国のセーフティーネットも不十分な現代にあって、人と人の絆の大切さに再び注目が集まっています。
 2010年に起きた「池袋出会いカフェ殺人事件」では、金銭をめぐるいざこざから、女性を殺害した加害者が、犯行後に自殺を思いとどまり、自首したことが報道されました。
 加害者はもともと福島県出身で家出同然に上京しました。家族や友人のいない東京でたまたま山形県出身の資産家と出会い、同じ東北出身のよしみで援助を受け、1人暮らしを始めたそうです。その後殺人事件を起こしてしまい、人生に絶望して自殺を試みようとしましたが、結局山形の資産家に連絡をとり、彼の助言もあって自首したのです。
 その一方で、加害者の母親は面会にも訪れず1度も法廷に来ませんでした。家庭の崩壊と、見ず知らずの他人と家族以上の絆を得るという意味で、加害者は不思議な体験をしています。
 国と個人の仲介役を果たし、人と人の絆を結びつける「中間集団」の存在にも関心が集まっています。本来行政が担うべき仕事が、予算削減や「小さな政府」化などによって、中間集団が代行しなければならない状況が生まれているためです。
 私は、今後の中間集団の課題が「事業の普遍性」と「人材育成の継続性」の2点に絞られてくるのではないかと考えています。たとえば東京の豊島区民と新宿区民が受ける行政サービスに大きな差異がないように、NPОなどの中間集団も、特定の人々のみに利益がもたらされることのないよう注意すべきだと思います。また、現在活躍中の社会起業家を見ていると、代表者のパーソナリティー(個性)で運動が成り立っている側面があるように感じています。事業を成り立たせ、存続させるためにも、個人の能力だけに依存しない、継続的な人材育成の仕組みを、行政がサポートしていくべきだと考えています。

<月刊誌『第三文明』2013年9月号より転載>


しぶい・てつや●1969年、栃木県生まれ。93年、東洋大学法学部卒業。長野日報記者を経て、98年にフリーに。2001年、東洋大学大学院文学研究科教育学専攻博士前期課程修了。インターネット・コミュニケーション、少年事件、ネット犯罪、自傷、自殺などの問題について取材を続ける。東日本大震災の取材も精力的・継続的に行っている。主な著書に『自殺を防ぐためのいくつかの手がかり』(河出書房新社)、『実録・闇サイト事件簿』(幻冬舎新書)、『気をつけよう! 薬物依存』(1~3巻、汐文社)など。てっちゃんの生きづらさオンライン@jugem