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冤罪を根絶するため刑事裁判の改革を徹底させていきたい

弁護士/元法政大学大学院教授
木谷 明

※この記事は『第三文明』2012年4月号に掲載されたものです。

検察官主導の裁判に問題点がある

 日本の刑事司法を概観したとき、大きな特徴として検察官の権力が強大すぎることが指摘できます。事実上、検察官が刑事裁判をコントロールしてきたといえます。
 刑事裁判において検察官の主張がすべてをリードし、裁判官はそれを追認して有罪認定をするという構造が恒常化してしまっていることが問題です。その結果、もっとも避けなければいけない冤罪が生まれてしまっているといえます。
 日本の刑事裁判では、被告人が罪状を認めている事件が起訴される場合が多いために、非常に高い有罪率となっています。罪を認めている事件がほとんどであるために、裁判所もそれに慣れてしまい、被告人が否認している事件でも、有罪であるとの先入観に基づいて裁判をしてしまいがちなのです。被告人が必死に無罪を主張し、弁解したとしても、嘘をついているのではないかと裁判官が思い込んでしまう。困ったことです。
 そうなってしまった原因は複合的にさまざまな要素が指摘できるでしょう。まず、刑事訴訟法が、事件を起訴するかどうかについて検察官の広い裁量を認める起訴便宜主義を採用していることがあげられます。検事は無罪判決を受けたくないために、確実に有罪判決の得られそうな事件だけを起訴しようとします。そのため、起訴する事件の多くについて、被告人は法廷で事実を認めることになります。
 次に、被告人が法廷で事実を否認しても、その主張がなかなか認められなくなっている訴訟構造上の問題点がほかにも2つあります。
 1つは、最近注目されている証拠開示の問題で、もう1つは、取り調べが密室で行われていて可視化されていない点です。

証拠開示は全面的に認められるべきである

 現在の刑事訴訟法は、当事者主義を採用し、検察官と弁護人を対等の関係と位置づけています。双方は、互いに自分に有利な証拠を出し合い、そのうえで裁判所が公平に判断するという建前になっているのです。そのために、検事は自分たちに不利な証拠、つまり被告人に有利な証拠は出しません。刑事訴訟法では、検察官が被告人に有利な証拠を持っていてもこれを見せなくてもいいことになっているのです。
 しかし、検察官は強大な国家権力を背景に広範に証拠を収集してきます。一方の弁護人には、検察官のような権限はありませんから、自分の力で被告人に有利な証拠を見つけてくるのは非常に困難です。
 この力の差を、私は「大砲と空気銃の勝負」と称しています。いくら「疑わしきは被告人の利益に」の原則があるとはいっても、与えられた武器にこれだけの差があっては、戦いの優劣は明らかです。被告人の最大の味方であるべき弁護人がこれだけ非力なのですから、被告人が無罪を獲得することが、いかに困難であるかが分かるでしょう。
 裁判員制度が開始された現在、それまでと比べると開示される証拠の範囲は広がりました。しかし、依然として検事がどんな証拠を持っているかを弁護人が知るチャンスは乏しいのが現状です。冤罪防止の観点からは、全面的な証拠開示を法制化することがどうしても必要です。

取り調べは全面的に可視化するべきである

 もう1つ、取り調べが密室で行われていることも深刻な問題で、取り調べを全面的に可視化すること(ビデオ録画または少なくとも録音すること)は喫緊の課題です。
 被疑者は否認すると23日間の逮捕・勾留期間中、連日長時間の取り調べを受けますが、その場所は、取調官だけしかいない密室です。ですから、そこでどんな取り調べをされたかを外部から窺い知ることはできません。被疑者がひどい取り調べを受けて嘘の自白をさせられることはそう珍しいことではないのですが、その状況を被告人が必死に訴えても、取調官は「そんなひどい取り調べはしなかった」と証言しますから、結局水掛け論になってしまいます。
 そして裁判所は、えてして、「被告人は罪を免れたいために嘘の弁解をしているのではないか。他方、取調官は宣誓してまで嘘をつくはずがないだろう」という単純な考え方に陥りがちです。
 その結果、本当は犯罪をしていない被告人の主張が通らず、有罪判決がくだされてしまうケースも出てきます。
 取調室で何が行われたかは、取り調べの状況を録画しておけば一目瞭然になります。自白が強要されたものか、それとも任意にされたものかは、多くの場合被告人の刑事責任を決定的に左右します。だから、この点については、事後的に裁判員など外部の者が客観的に判断できるような資料を残すべきなのです。

裁判員制度を実効あるものに

 近年、採用された裁判員制度は、基本的には刑事裁判を良くする方向に資するものだと私は考えています。刑事裁判を国民の目で直接検証することができるからです。
 しかし、前提となる刑事裁判手続きに構造上の欠陥があるため、裁判員制度の長所も活かされにくい面があります。先ほどから言っている取り調べの可視化と証拠開示の問題が解決されなければ、せっかくの裁判員制度も本来の機能を果たすことはできません。
 これらの点についても改善の動きはありますが、現状を大きく前進させるような議論が有力になってほしいものです。法務・検察当局は、いずれの問題についても消極的な姿勢をとっていますが、国民的議論によって、これを乗り越えてほしいと期待しています。
 最後にあと2点、死刑制度と上訴制度の問題について意見を述べます。死刑は、被告人の生命を国が抹殺する究極の刑罰ですから、誤判の場合取り返しがつきません。万に1つも誤りが許されないのです。刑事裁判手続きが万全のものであったとしても、人間が常に正しい結論に到達できるという保障はありませんが、これまで述べてきたように、現在の手続きには重大な欠陥がいくつもあります。その中で困難な判断を求められる裁判員が、死刑制度の存否について真剣に悩み考えていく中で、廃止の方向で国民的な議論が深まっていくことを期待します。
 もう1つの上訴(特に検察官上訴)の問題は、裁判員制度新設に当たって当然法律上、手を加えるべきであったのに運用に任されることになったのです。しかし、最近になって、この点に関する問題が顕在化してきました。要するに、裁判員裁判で無罪判決を受けた被告人が、検察官控訴の結果、逆転有罪になる事例が多発しているのです。裁判員制度の目的の1つに、刑事裁判に国民の常識的な判断を採り入れようとする点があったはずです。しかし、このようにして、裁判員が無罪とした被告人を裁判官が逆転有罪にすることが日常化するのでは裁判員制度を採用した趣旨が没却され、ひいてはその崩壊につながってしまいます。
 無実の人を処罰する誤りを犯してはならないという刑事裁判の基本原則を、私たちは深く心にとめるべきだと思います。冤罪を根絶することはできないにしても、社会全体が裁判所と一緒に悩み苦しむことによってこれを限りなくゼロに近づけることは可能であると考えます。

<月刊誌『第三文明』2012年4月号より転載>


きたに・あきら●1937年生まれ。1961年東京大学法学部卒業後、同年司法研修所入所(第15期)。63年判事補任官(東京地裁)、66年最高裁刑事局付、69年札幌地裁判事補・同高裁判事職務代行、72年東京地裁判事補、73年同地裁判事、75年名古屋地裁判事、78年同高裁判事職務代行を経て、79年最高裁調査官。84年大阪高裁判事、88年浦和地裁判事・部総括、92年水戸地裁所長、99年東京高裁判事・部総括を経て、2000年5月退官、同年公証人(霞ヶ関)。元法政大学大学院法務研究科教授。著書に『刑事事実認定の基本問題』(成文堂)、『刑事裁判の心』(法律文化社)、『刑事事実認定の理想と現実』(法律文化社)など。