今こそ問われる 政教分離の本来のあり方

京都大学大学院教授
大石 眞

死者への尊厳を欠く 地方自治体の対応

 2011年3月11日に発生した東日本大震災では数多くの方々が亡くなられました。なかでも遺体となって発見された身元不明の犠牲者をどう供養していくかで、地方自治体が憲法の定める政教分離の原則に抵触することを理由に苦慮しています。
 報道によれば、仙台市青葉区の市営墓園に身元不明の24人の遺骨が、簡素なプレハブの建物にひっそりと置かれ、見届けたのは市職員ら12人のみ。読経もなければ、祈りの言葉もなかったのだといいます。職員の焼香すらありませんでした。
 仏教会から読経の申し入れがあったものの、市側は政教分離を理由に「市職員と宗教者が同席することはできない」と申し入れを断りました。さらには、「仏教の概念だから」と「四十九日」の合同供養も見送ったのです。
 日本国憲法は、信教の自由を保障するために、政治に宗教的中立性を求める政教分離を定めています。国や地方自治体が特定の宗教団体に特権を与えたり、自ら宗教活動を行うことを禁じています。
 しかし、憲法が規定する「宗教活動」に当たるのは、宗教的意義を持ち、特定の宗教に対する援助や助長になる行為です。故人を供養するための読経の場に公務員が同席したり、自治体主催の合同供養などは、憲法が禁じる「宗教活動」に当たりません。公務員の焼香まで自粛するというのは、一種の過剰反応ではないでしょうか。これは、憲法問題などではなく、一般常識の範囲内のことなのです。同じ宮城県の塩釜市では、古くから海で引き揚げた遺体を受け入れてきた歴史があり、以前から盆には、無縁仏の合同供養を行ってきた経緯があります。
 死者に対して尊厳の念を抱くことは、きわめて当然のことです。手厚く見送ることが、残された私たちの責務であり、身元不明のご遺体は、公的機関が対応するしかない現実にもかかわらず、憲法が壁になって、死者への畏敬の念を欠くという事態を招来してしまっていることは残念でなりません。

本当の政教分離は観念的なものではない

 憲法における政教分離というものは、決して観念的なものではありません。たとえば、アメリカ合衆国では、お金に「我々は神を信じる」と記されています。大統領は就任時に聖書に手を置いて宣誓します。フランスでは最高裁判所に隣接して大きなカトリックの教会があり、そこで催されるコンサートには最高裁の建物を通って行ったりしています。
 だからといって、米国やフランスが政治と宗教が癒着した政教一致であるというような考えは一切されていません。日本で考えられるような観念的なものではなく、日常的な生活のなかで宗教をとらえているのです。
 いわゆる政教分離の原則に立つアメリカ合衆国とフランスでは、用語としても明確に「教会と国家の分離」と表され、政治の領域からあらゆる宗教色を排除するというニュアンスを持つものではありません。
 日本国憲法が政教分離を定めているのは、「政権(国家)」と「教権(宗教団体)」の分離であって、宗教と政治がまったく関係を持ってはならないという意味ではありません。政治と宗教はもともとある現象ですから、分離できるはずがないのです。政治権力が特定の宗教を国教としたり、宗教が国政の決定権を持ったりすることを否定するものです。
 政教分離というと、「政党と創価学会の関係で政教分離がなされていないから憲法違反だ」というような発言がまことしやかになされます。これは、多くの人がいわれるように、誤っています。政党は国の機関そのものではありませんから、そもそも憲法でいう「政教分離」の対象ではないのです。
 政教分離は、「私たちの生活のなかから宗教を追い出せ」というものではないのです。宗教なき世界というのは考えられません。
どうも、我が国における「政教分離」論の根底には、あたかも憲法が無宗教、もっといえば非宗教であることを大前提にしているのだという誤解があります。
 それは、多くのマスコミも同様です。今回の東日本大震災も、阪神・淡路大震災においても、多くの宗教団体が熱心に被災地救援活動を展開しています。創価学会もそうです。頭の下がる崇高な行いなのですが、そうした事実をマスコミはほとんど報道しません。組織的、継続的に社会のために行っている活動を一切報じない姿勢には大きな疑問を感じます。

教育のあり方も深く考えていくべき

 そういう意味でも、宗教的な情操教育は大切だと私は思います。公教育の場でも、本当をいえば、宗教という「私事」の大切さやその公的使命を説く機会がなくてはならないでしょう。しかし、宗教の持つ優れた情操面を子どもたちに伝えていく教育は公立教育においては皆無です。
 例をあげれば、多くの生徒たちが修学旅行で京都や奈良を訪れますが、文化遺産としての表層の解説を先生方はするだけで、その背後にある宗教的な精神性については少しも触れようとしないのが現実です。ですから、せっかく京都や奈良まで来ても、得られるものが少ないのです。大人になって、ようやくその意味が分かるようになった方が多いのではないかと思います。学校教育のなかでこそ、優れた宗教的精神を培っていけるのにと惜しまれます。
 奈良・平安・鎌倉に至る仏教の大きな流れと内容を学ぶこと、教えることは、文化史としても何も問題がないはずです。ところが、公立教育において、そういう面に言及することが、特定の仏教という宗教を宣揚することにつながるとの誤解が教育者側に根強くあるのかもしれませんが、それは憲法の誤解です。
公立学校の先生方が、宗教の内容について教えることが憲法違反だというような考えを抱いているとすれば、是正していく必要があります。宗教的情操教育について、真剣に考える時が来たのではないでしょうか。

<月刊誌『第三文明』2012年4月号より転載>


おおいし・まこと●1951年、宮崎県生まれ。74年、東北大学法学部卒業後、國學院大學法学部助教授、九州大学法学部教授などを経て、現在、京都大学大学院法学研究科教授。専攻は憲法、議会法、宗教法、憲法史。著書に『憲法史と憲法解釈』(信山社出版)、『憲法秩序への展望』『日本憲法史』『憲法と宗教制度』(以上、有斐閣)、『憲法20条』(共著、第三文明社)など多数。